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私の広瀬川インタビュー

広瀬川に関心がない人たちにできるだけ広瀬川へ目を向けてもらえるよう、市民にとって身近に感じられる仙台市に関係の深い著名人に、広瀬川との関わり、想い等を語ってもらいます。
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第7回目 熊谷達也さん
熊谷達也さん
平成17年12月6日(火)
16:15〜17:15

聞き手:丹野靖子(仙台市建設局広瀬川創生室)

『宮城の思い出』
聞き手
 まず青年期までの思い出についてうかがいます。高校まで宮城県で過ごされたとのことですが、宮城県の自然や川に関する思い出があればお聞かせください。
熊谷さん
 生まれたのは仙台市ですが2歳で引越しをして、子どもの頃住んでいたのは登米町でした。あそこは北上川の河畔なので川といえば北上川です。中流でも下流に近いところなので、かかっている橋が200mくらいあるような、川幅の広い非常に大きな川でした。小学校のプールができる前は川で水泳の授業をしていましたね。そのほかには、ダンボールをそりの代わりにして土手をすべるような遊びが多かったです。繋留してあるボートをちょっといたずらで借りて遊びもしました。あとは、東側に入ると志津川との間が、北上山地の一番はずれにあたるんですが、山になっていたので、支流の沢を登ってカブトムシを採りに行ったり。そういう遊びは、ごく普通に、田舎の「洟垂れ(はなたれ)小僧」としてやってました。
聞き手
 昔見た北上川のイメージと広瀬川のイメージと比較して違うところはありますか。
熊谷さん
 北上川は生活河川というイメージがすごく強い。平田舟(ひらたぶね)ってご存じですか。昔は登米町はお米の集積地だったので、周辺から米を集めて平田舟という動力のついていない運搬船で石巻まで行ってその後江戸まで運んでいました。米の運搬が終わってからは砂利の運搬がしばらく続いていました。僕が子どもの頃、最後の平田舟が通っていました。昔はたくさん連結して蒸気船で走っていたようですが、僕が見たのはいわゆるポンポン蒸気という蒸気船で、一艘だけ。たぶん最後の平田舟だったのでしょう。
 広瀬川には子どもの頃の思い出はありませんが、かなり早くからそういう使われ方はしなくなったのかな。広瀬川は街の中を流れている川なので、いろんな面で早く近代化が進んできたのだろうと思います。
聞き手
 大学卒業後は、最初埼玉県で教員をされていたということですが、宮城県に戻られたきっかけをお聞かせください。
熊谷さん
 教員を始めて4年目で戻ってきました。ちょうど年齢的には30歳になるかならないか。もともと田舎が嫌いで首都圏に出ましたが、そのくらいの年になるとせわしい暮らしにだんだん疲れてきたのだと思います。人の歩く速度も速いし、車も混むし。あとは長男ということも大きかった。田舎に戻るのも悪くないかなと思い始めて、仕事しながら宮城県の採用試験に挑戦したら通って、これを機会に戻ってみようかと思ったのが直接のきっかけでした。
 戻ってきた最初の赴任地は気仙沼でした。気仙沼中学校に3年間勤めて最後の年に結婚しました。実家が今の登米市の中田町にあったので、結婚を機にそちらの管内に戻ろうと、子どもの頃育った登米町の隣の南方町に赴任したのですが、1年でリタイアしました。合計8年です。


『作家としての東北の自然・広瀬川への興味』
聞き手
 その後仙台で保険代理業をされている間に作品を書かれるようになったとうかがいました。熊谷さんは東北の自然をテーマにした作品を多く書かれていますが、故郷の自然への思い入れがあってのことでしょうか。
熊谷さん
 1997年にデビューをしてから、どういう方向で書いていこうか、だいぶ悩みました。その時に書きやすいテーマだと思ったのが、自然の中での物語でした。一度は嫌いで出た東北ですが、戻ってきて、あらためて生活をして、小説を書くということを始めると、若い頃見えていなかったものがいろいろ見えてきます。例えば、ただの田んぼの風景、僕は嫌いだったんです。変化がなくて。でも、そういう田んぼの風景のすぐ隣に山の猟師さんが住んでいる。東北にはまだ弥生的な風景の下に縄文的な風景が色濃く残っているんだな、これはおもしろそうだなと思いましたね。単に東北の自然の見た目の良さではなく、いろいろな生業(なりわい)を持った人たちがその中でいったいどんな暮らしをしていたのか、何を思って生きているのか、そういったことにすごく興味がわきました。そこで、デビューして2年目くらいに、5年間くらいは東北だけを舞台にして、自然と人間の関わりを大きなテーマに据えて、小説家として生き残りの道を探ることにしました。
聞き手
 あらためて自然の中で生活したところで見えてきたものがあった、ということですが、広瀬川についてはどのような印象をお持ちですか。
熊谷さん
 広瀬川はどこに行くにしてもよく目にしますが、暮らしの中で直接関わりはありません。ただ、のどかな広瀬川というイメージは持っていない。
 広瀬川に僕が持っているイメージは、見た目の底に隠れたものです。例えば、昔、評定河原には刑場がありましたよね。あるいは伊達政宗が城下町を作った時、広瀬川は南から来る時の入り口でした。城下に戻る時は広瀬橋のあたりで履いてきた草鞋(わらじ)を草履(ぞうり)に履き替える風習が明治まで続いていました。そういう話を拾って古地図を見ていくと、城下を守る番所の警備等をする人たちの集落が近世の広瀬川沿いにあって、近代あるいは現代に入って解体していったらしいことがわかってきました。これはいったいなぜなのだろう、ということに興味があって、今実際に連載で書き始めてはいるんです。来年あたり本になると思います。
 要するに、広瀬川の持っている過去の歴史を掘り起こしてみると、おもしろいものが出てくるのではないか、あるいはそこに暮らしていた人たちや仙台の人たちの精神性がよくわかってくるのではないかと思うんですよ。仙台の中で面白いスポットの一つは、確かに広瀬川の履歴ですね。
聞き手
 熊谷さんの作品の中では、自然と人間の切口で、生と死の狭間を予感するような自然の厳しさに注目されていますが、そこに注目されることには理由があるのでしょうか。
熊谷さん
 小説というのは、どう人間を描くかに尽きると思います。そして人間の虚飾のない生(なま)の姿というのは、すごく深刻で危機的な状況で出てくると思うんです。その一つとして、厳しい自然の中に身一つで放り出された時、という状況があるのではないか。例えば、雪山に一人ポンと下ろされてしまったら、いくらお金を持っていても何の役にも立ちませんし、生き抜くためには知恵を使うしかないので、きっと生身の人間の姿が出てくる、そういう姿を描いてみたいと、すごく強く思うんです。
聞き手
 マタギの生活の実体験は作品を書かれる上でかなり影響しているのでしょうか。
熊谷さん
 作品によっても違いますが、資料だけで書いたものと現地に足を運んで書いたものとほとんどは同じだと思います。ただ残りの2、3%に、実際体験している、していないで違いがある。聴き取りまでしなくても、自分が書いている舞台、設定した土地に立っただけで、なんとなくその土地の肌触りや匂いを感じますから。もともとフィールドワークが好きだというのもあります。体も動くので、今のうちにできるだけ、たくさん生(なま)で見ておいて、還暦過ぎてそんなに体が動かなくなった時は妄想で書けるようになればいいなと思っています。

 

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