vol.10 シンガーソングライター あんべ光俊さん

平成19年10月19日(金)
15:00~16:40
場所:「カフェ・モーツアルト・アトリエ」
(広瀬川を望む青葉区米ヶ袋の庭園にて、
鳥のさえずりを聴きながら)
聞き手:丹野靖子(仙台市建設局広瀬川創生室)

『青年期までの思い出』

●聞き手

まず、青年期までの思い出をお伺いしたいのですが、あんべさんは早稲田大学ご出身と伺っております。在学中に「飛行船」というグループでデビューされ、今年でデビューから34年目ということですが、デビューされたきっかけを教えてください。

●あんべさん

「飛行船」は大学の同級生の友人たちと組んでいたバンドだったのですが、実は大学3年生になった頃、解散して就職活動をしましょうという話がでていたんです。
当時、僕ら「飛行船」のメンバーは焼きイモ屋さんでバイトをしていました。その焼きイモというのは、石焼きイモではなく赤外線でジャガイモを焼くものだったのです。
その焼イモ屋の会社はファーストフード店のような展開をしようとしていたようですが、僕らは遊園地などに売りに行くのですが、全然売れないんですよね。その売れ残ったイモを食料にしていたんです。焼きイモが売れなくてもアルバイト代は支払われていたので、じゃあそのアルバイト代でレコードを作ろうということになり、1,000枚のシングルレコードつくったんです。たまたまそのレコードを聴いたメーカーの人がいて、「君たちプロでやってみないか」という話になりました。
いってみれば焼きイモから「飛行船」は始まったということでしょうか。

●聞き手

なるほど。ところで、早稲田大学の社会科学部と伺いましが、キャンパスはどちらでしたか。

●あんべさん

大隈講堂のある本部キャンパスです。

●聞き手

あの辺で近くにある川といいますと、神田川でしょうか。

●あんべさん

そうですね。

●聞き手

神田川は、音楽制作には何か関係しましたか。

●あんべさん

・・・。神田川を下ったところの「大曲」というところの印刷屋さんがメンバーの実家だったものでよく目にしていましたが、当時の神田川は今以上に汚かったですね。歌作りに関係していたかどうかはわかりませんが、神田川を目にすることでふるさとを想っていたのかもしれませんね。透明なせせらぎとか。
東京にいて、二子玉川にも住んでいたことがありますが、多摩川などは河原が広くて、好きなんですけど。ただ、東京でも東の方にいくと三面護岸の川が多くて、潤いがないというイメージがありました。

●聞き手

学生街の風景の一つとして川は入っていたのでしょうか。

●あんべさん

どうでしょう。高田馬場あたりだと、ほんとうに神田川沿いなので、そうしたイメージはあると思いますが。あの大ヒットしたかぐや姫の「神田川」の世界というのは、高田馬場あたりのイメージだと思いますね。僕も付き合ってた人があの辺に住んでいましたが・・・

『ふるさとの岩手県』

●聞き手

そうだったんですか。では、場面を変えて、ふるさとの岩手県について伺いたいと思います。飛行船時代に「遠野物語」という曲を作られているのですが、ご出身は釜石ですが、遠野地区に何かご縁はあったのでしょうか。

●あんべさん

父親が遠野の出身なんですよ。母親が隣の今は遠野市になりましたが宮守村というところの出身です。

●聞き手

遠野物語を聴いていると、もしかしたら恋人が遠野にいたのではないかという感じを受けたのですが・・・

●あんべさん

いや、それはなかったのですが・・・ただ、遠野物語を聴いて、ふるさとに帰ろうと思った、という人は結構多いみたいでしたね。
大槌町」という海の町においしい寿司屋があって、そこに食べに行ったときの話ですが、そこのご主人は昔東京で修行をしていて、東京で自分のお店を開こうと考えていたそうですが、遠野物語を聴いてやっぱりふるさとに帰ろうと思って帰ってきたと。遠野物語という歌で人生が変わったんだ、とおっしゃられてました。
その時私に、どういう想いでつくったのかと尋ねられたんで、あまりにも正直に、当時食べられなかったですから、売れてほしいと思って作りましたって答えたら・・・ご主人におしぼり投げつけられたりして・・・
本当は、当時のマネージャーが時刻表を見ている姿を目にしたら、スラスラ・・・と歌が降りてきたんです。

●聞き手

遠野市(※1)のふるさと遠野大使に就任されていますが、どのような活動をしているのでしょうか。

●あんべさん

基本的には、いろいろな所で「民話のふるさと遠野大使」の肩書入りの名刺を配り、遠野の魅力を伝えるということです。

※1 遠野市:
遠野市役所のホームページ http://www.city.tono.iwate.jp/
遠野市観光協会のホームページ http://www.tonojikan.jp/

『仙台での活動』

●聞き手

それでは、現在のお仕事の話でお聞きいたします。ソロ活動30周年を記念してベストアルバム「イーハトーヴタイム」を8月にリリースされたということですが、現在仙台ではどういった音楽活動をされているのでしょうか。

●あんべさん

メインはコンサートとラジオです。それから歌を作る場ですよね。

●聞き手

来月からコンサートツアーが始まる予定と伺いましたが。

●あんべさん

11月から、盛岡、仙台、東京でやります。来年4月20日に有楽町の国際フォーラムのファイナルを目指して回っていきます。

●聞き手

ツアー中、全国を回るときは一度も帰らずそのまま行かれるのでしょうか。

●あんべさん

日程が繋がっていれば帰りません。昔は3週間とか出っぱなしでした。あまり苦にはならないですね。まだ独りの時、3週間ぶりに家に帰ったら、扇風機がずーっと首を振っていたことがありましたけどね。

●聞き手

仙台市では定禅寺通のストリートジャズフェスティバル(ジャズフェス)という音楽イベントがあります。今年はあんべさんが以前から関わりのあるイベント「とっておきの音楽祭」が、今年の5月と9月に映画「オハイエ」として上映され、多くの感動を呼んだことが記憶に新しいかと思うのですが、この企画に関わることになった経緯を教えてください。

●あんべさん

「とっておきの音楽祭」に関しては現在は顧問ですが、2000年に宮城国体があり、またパラリンピックがあり、それと同時に文化面でも何かあった方が良いのではないかという流れの中で、いろんな人がジャズフェスのような屋外で何かイベントができたらいいのではないかという原案があり、それをお手伝いしようということになりました。

●聞き手

この仕事の中で印象に残ったことはありますか。

●あんべさん

確か3回目の時です。ファッションドーム141のホールのところでステージがあったのですが、エレベーターに乗って下に降りていく時、県外のお客様が「仙台には障害のある人が多いのね」と言っていたのが聞こえたんです。
それは多い訳ではないんです。やっと3回目くらいから、障害のある人たちも自宅を出て、街を歩き、音楽を聴きに来てくれたのだなーと実感したんです。そのことが印象に残っています。

●聞き手

私の父も病気で体が不自由で、あまり外に出たがらないのですが、自発的に出たいという機会があれば行かせてあげたいなと思います。

●あんべさん

やはり力が湧いてくるのではないかと思いますね。私の父も交通事故にあってからは、面倒だし、面倒かけたくないという気持ちから外出に消極的になりがちでしたね。

●聞き手

映画では、立つこともかなわなかったのに、演奏しようと立つシーンがありました。音楽の力のほか、イベントだからこそというのがありますよね。

●あんべさん

そうですね。音楽にはそうした力があると思います。