
平成20年12月23日(火)
14:45~15:45
場所:仙台放送インタビュールーム
聞き手:丹野靖子(仙台市建設局広瀬川創生室)
『仙台との縁』
●聞き手
お生まれは東京で、お父様の転勤で仙台に来られたそうですが、初めて滑ったスケートリンクは仙台と伺ってますが。
●荒川さん
はい、勝山スケートリンクです。
●聞き手
ご存じだとは思いますが、博物館の所の五色沼が日本フィギュアスケートの発祥だそうです。これは当時の写真です。この頃は、平均気温でいうと岩手県の今の気温と同じだそうです。


●荒川さん
氷の厚さは、どれくらいあったのですか。
●聞き手
人が乗っても大丈夫なくらいですから、15cmぐらいでしょうか。沼ですから、水が動かないので氷るのも早かったのでしょうね。
●荒川さん

そうですね。これ(フィギュアスケート発祥の地モニュメント)が建立されたとき、テープカットを見に行きました。及川史弘さん(宮城県出身の元フィギュアスケート選手、1994年リレハンメルオリンピック男子シングル日本代表)がテープカットをされたのかな。
●聞き手
写真は昭和45年くらいのものなんです。
●荒川さん
へぇー、貴重な写真ですね。
●聞き手
今はとても出来ないですからね。
●荒川さん
氷らないですものね。
●聞き手
氷が張ったとしても、手でコツンとすれば割れてしまいますからね。戦後、広瀬川で初めて開催されたスポーツの全国大会が、フィギュアスケートだったということです。荒川さんとの縁を感じずにはいられません。こちら宜しかったら差し上げますので。
●荒川さん
ありがとうございます。
●聞き手
小学生の時に、本格的にフィギュアスケートを始められたそうですが、めざましい上達ぶりだったと聞いております。初めてリンクで滑ってみて、これが私のスポーツだというような運命的なものを感じたのですか。
●荒川さん
これが自分のスポーツと感じたのは、トリノオリンピックの時ですかね。
●聞き手
そもそも始めたきっかけというのは、何だったのですか。
●荒川さん
たまたま、家族でスキーにでも行こうかというふうになったんですけど、スケートの方が近いし、気軽に行くことが出来るので、勝山スケートリンクにみんなで行ったら、私より少し年上の子達がヒラヒラのスカートで滑っているのを見て、私も着てみたいと思ったんです。スケートの魅力というよりも、あのスピードでヒラヒラのコスチュームを着て滑ってみたいと思いました。それがきっかけです。
●聞き手
お母様は滑られるのですか。
●荒川さん
自分のスケート靴を持っていました。
●聞き手
お父様は?
●荒川さん
全く滑らないわけではないですけどね。
●聞き手
荒川さんが仙台に居たときの一番の思い出は何ですか?
●荒川さん
スケートを始めたのも仙台で、初めてオリンピックに出たのも仙台だったので、いろいろスケートに対する思い出はありますし、それ以外も学校行事や友人と遊んだこと、どれが一番というより、沢山の思い出があるという感じですね。
●聞き手
中学時代もトップレベルの選手だったということで、全国の高校からラブコールがあったかと思いますが、その中で東北高校を選んだ理由は何だったのですか。
●荒川さん
唯一、スケート部があったんです。そこに所属している先輩がいて、スケートの時間を取るのにお手伝いをしてくれる学校だったのが大きな理由です。とてもスケートに対して理解のある学校で、学校が終わったらスケートリンクまで送ってくれることもして下さったり、スケートリンクが校舎から離れているので、助かりました。
●聞き手
プライベートで、東京から仙台に遊びに来られることはありますか。
●荒川さん
今はなかなか時間が取れなく、プライベートでは来ることはないです。旅行に行く時間、休める時間があっても、今はアイスショーや他の仕事のため、今やらなければいけない仕事に時間を使いたいと思っています。旅行などは、もう少し先でも出来ると思うので。