vol.11 広瀬川に残る藩政時代の空間保全に向けて

東北工業大学 建設システム工学科 助教授 松山正將さん

■藩政時代の「大橋」の姿

写真-1は「大橋」の姿を写したもので、記録に残されている最も古い写真の一つです。2001年4月8日月曜日の河北新報朝刊にもこの写真が掲載され、「明治と改元されて間もない頃に撮影された古い写真で、大橋や石垣の様子がよくわかる珍しいアングルで貴重な資料」と紹介されています。2006年3月発行の『仙台市史特別編7「城館」』p375にも同様な写真が掲載されていて、橋の中央部から大手門側にかけて補修の様子がうかがわれ、次の写真-2よりも後の状況を写したものであるとされています。

写真-1 明治初期の大橋の写真(石黒敬章氏所蔵)

1868年(明治元年)に撮影されたと見られ、手前に写っているのが 広瀬川、その向こうが城の石垣と大 手門である。

写真-2は1881年以前に撮影されたものと見られ、『大日本全国名所一覧(イタリア公使秘蔵の明治写真帖)』(平凡社:2001年6月25日発行)のp100では、「宮城県旧仙台城大手」と説明されています。この本の解説ではさらに、1875(明治8)年7月2日に起こった洪水についても述べられており、両岸の橋脚部分を残して流失してしまった大橋の様子が描写されています。

改めて写真-2の右岸側に残る橋脚の様子を見てみますと、橋の上流側に洪水時の流木除け用に設けられていた杭の姿は一本もなく、橋杭3本で構成されている橋脚では上流側の橋杭が根包板(1)(ねづつみいた)部分から「くの字型」に折れ曲がっています。広瀬川が暴れ川であり、それが引き起こす洪水の底知れぬ破壊力の凄さをうかがい知る事ができます。

写真-2 仙台藩時代の大橋の写真(文化財建造物保存技術協会所蔵)

仙台藩の時代、広瀬川には仙台城の外堀的な役割もあり、城と城下を結ぶために要所に橋が架けられていました。橋は洪水などの災害で何度も流失したものの、そのつど架け直され、明治維新を迎えています。現在の広瀬川には上流にダム(大倉ダム)が建設され、護岸工事も進み、洪水など氾濫の危険性は大幅に減少しました。そして樹木で造られていた橋も、鋼や鉄筋コンクリートで造られた橋に代わり安全で交通も便利になりました。