vol.5 伊達政宗と広瀬川

文化史家 前仙台市博物館館長 濱田直嗣(なおつぐ)さん

伊達政宗公が仙台開府(かいふ) という新しい国づくりを始めようとした時、その首府となるべき街と城を築く場所に、仙台の地を選びました。
奥羽(おうう)山系(さんけい)
から大きくはりでた丘陵(きゅうりょう)の先端にある青葉山と、その眼前に横たわる広瀬川。さらには、宮城野原、仙台平野越しに望(のぞ)む太平洋。このような地域が仙台でした。

仙台に城と城下町を決めるとき、政宗公はこれからめざす世界が永遠の生命(いのち)を持てるように、平和な時代を実現させた前例の、古代中国の漢(かん)と唐(とう)を手本にしました。このふたつの国の首都は長安(ちょうあん)(現在は西安)ですが、最初に長安をつくった漢の文帝(ぶんてい)は、黄河の支流に棲(す)む河上公(かじょうこう)という仙人に国を治めるための教えを受け、都が完成すると西の一角に仙人たちが集う"仙遊館(せんゆうかん)・仙台"を設けて、永遠(えいえん)の繁栄を見守ってもらったとつたえています。この伝説をもとに唐の詩人が"仙台初めてみる五城楼(ごじょうろう)"と詠(よ)み、これを知った政宗公は、同様な願いをこめて、それまでの地名の"千代(せんだい)"を、今も用いる"仙台"に代えたといわれます。

文久絵図にみる広瀬川と大橋(左図)広瀬川と瑞鳳殿(右図)/斎藤報恩会蔵

仙人が棲んだ河と長安(ちょうあん)の西に位置する中国の仙台。豊かな流れの広瀬川と西部に城を構(かま)えたみちのくの首都・仙台。このふたつの都が持つ共通性は、仙人に守られたかのように、地域と人が安らかで楽しい世界を常に確保(かくほ)することだったのです。当時、広瀬川は仙台川(又は大川(おおかわ))、大橋は仙台橋と呼ばれますが、城と城下町をむすぶこの橋を架けた際、政宗公は"仙人橋下、河水(かすい)千年、民安んじ国泰(やす)んず、尭天(ぎょうてん)といづれか"と記した擬宝珠(ぎぼしゅ)を橋の欄干(らんかん)に掲げました。ここには、漢・唐と同様に理想国家とされてきた尭(ぎょう)の時代に、わが仙台も肩を並べようという強い決意が、永遠を象徴(しょうちょう)する広瀬川に託して明言されています。この聖なる流れが城下に入りこむ最初の場所に、仙台を鎮守(ちんじゅ)する大崎八幡宮(はちまんぐう)が創建されたことも、かけがえのない清流を神とともに守ろうとする意図(いと)をはっきりと伝えてくれます。