2. 近代の木流し

明治時代以降になると、元木場の敷地に農学試験場(6)を設けるためにその地を譲り、名取川を利用した木流しは行なわれなくなりました。

広瀬川の木流しは、明治2年(1869)まで存続し、その後しばらく中断していましたが(7)、明治10年(1877)から明治28年(1895)にかけては、宮城流木会社などによって木流しが行われるようになりました。しかし、明治11年(1878)には、山間地の農民たちが、官林奥山の夏山伐採をひかえてほしいと訴えた願書が県令(8)に提出されています。
これによれば、流木薪の大量伐採は、特定の奥山の夏山伐採や長雨などと重なって凶作をもたらすものと山間地の農民たちには考えられており、森林生態的な環境バランスを取るための一定の規則作りが慣習化されていました。しかし、木流しの事業者は、しばしば規則を破ることにより、山間地の農民たちの反発をかっていたことがわかります。

その後、明治30年以降になると、地元の大倉区民への山林の特別払い下げが行われ(9)、地元有力農民が経営する大倉流木組(のちに合名会社)による広瀬川の木流しが行われるようになりました。
木流しの仕事は木伐りから始まり、山小屋に住み込み、旧暦5月から盆休みをはさんで旧暦11月頃まで木を伐ります。伐った木は、冬に山から雪橇(ゆきそり)出し、鉄砲堤(10)での沢出しをして定義の角岩などの中揚場所まで流し、木揚げをしました。

中揚場所(11)で木揚げをして積み上げた流木薪(まき)は、旧暦4月に雪解け水を利用して、大倉川に入れ木をします。それを1週間から10日くらいかけて仙台大橋の木場(12)まで流し、木揚げをしました。
流木薪は、おもに仙台市内の諸役所、学校、軍隊、商工業者(湯屋、醸造業、菓子屋等)、さらには仙台市民のために販売(13)されました。

大倉流木の木流しは、昭和13年(1938)頃が最後といわれており、その後はトラックで運搬され、昭和17年(1942)を最後に木流しは行われなくなりました。

おわりに-流域の森林文化-

昭和20年代の宮城県水系別林野面積をみると、名取川・広瀬川は全体の13.8パーセントで、県内最大の山林面積を占めていました。これらの自然の恵みに人間が手をかけることの畏れと感謝から、流木事業の関係者によって、上流域に山神碑や水神碑が建立され祀られました。

これらの山林原野は、かつては、木炭、薪、建築材、茅葺屋根の材料、橋梁材、道具の材料、田んぼの緑肥(りょくひ)、牛馬の飼葉等をはじめとするさまざまな用途に利用されてきました。木流しや駄子馬(だんこうま)(14)・荷馬車による薪炭の運搬は、仙台市の風物詩でもありました。
そして、仙台地方において17世紀から20世紀半ばにかけて、主要な燃料であった薪炭エネルギーの供給システムとして、最も重要な役割を担っていたのが、木流しだったといえます。