vol.3 広瀬川における木流しの歴史と流域の森林文化

仙台市歴史民俗資料館 佐藤雅也さん

はじめに

木流(きなが)しとは、山林で伐採(ばっさい)した木を、河川の流れを利用して、流送(りゅうそう)することを言います。
仙台地方の木流しは、建築や家具等の材料にする用材や燃料に利用する薪(たきぎ)(まき)を、「管流(くだなが)し」という方法で流していました。「管流し」とは、筏(いかだ)を組んだりせずに、一本一本をバラバラと流すものです。用材は必要に応じて臨時に流され、薪はほぼ毎年のように流されていました。

木流しは、「木伐(きき)り」、「山出(やまだ)し」、「中揚(なかあ)げ」、「大川下(おおかわさ)げ」といった手順で行われました。「木伐り」とはその字の通り、木を伐採することです。「山出し」とは、奥山で伐採した木を、積みかえ場所まで沢等を使って運ぶことをいいます。

積みかえ場所では、沢や川から木を取りあげ、いったん1ケ所に集め、乾燥させ、再びいっせいに流すための準備をします。これを「中揚げ」といいます。
「大川下げ」とは、木流しの最も重要な作業の1つで、「中揚げ」の場所から、雪解け水などを利用して、いっせいに本流に木を流すことをいいます。一般の人々が目にするのは、この大川下げの光景であり、木流しといえばこの光景のことでした。

江戸時代には名取川と広瀬川の両方を利用して、木流しが行なわれていましたが、明治時代以降には広瀬川だけで行なわれるようになりました。このような大規模な木流し以外にも、上流域の村々や組では、新川(にっかわ)川、青下(あおした)川などを利用して、自家用の薪を調達するための小規模な木流しを行っていました。

1.仙台藩の木流し

仙台藩における名取川・広瀬川の流木事業は、仙台城中の諸役所と、役つきの仙台藩士の屋敷に、燃料となる薪を調達・供給するための事業でした。

流木事業のなかでも、木伐り、山出し、中揚、大川下げといった作業は、17世紀半ば頃までは、上流域の村請(むらうけ)(強制的に村が請け負う)という形態で行なわれていました。しかし、17世紀半ば以降になると、入札制となり仙台城下の商人による請け負いへと変わっていきました(1)。
薪となるブナ・雑木(ぞうき)などの伐採地は、広瀬川上流域は定義(じょうぎ)・大倉(おおくら)・関山(せきやま)・作並(さくなみ)・新川(にっかわ)などで伐採し、名取川上流域では、笹谷(ささや)・二口(ふたくち)峠・野上(のじょう)などで伐採していました。

木伐り職人の7、8割は、最上・庄内・南部・津軽などの隣接諸藩の労働力を利用しており、地元農民は2、3割くらいを占めていました(2)。ただし、中揚・木場(きば)での木揚げ、川下げなどには、多くの地元農民が従事していました。
そして、広瀬川の角五郎木場(つのごろうきば)(3)や、名取川の長町木場(4)などからは、駄送(だそう)
(5)
で薪が運搬されました。