vol.16 亜炭と仙台愛宕下水力発電所

第1回 仙台は亜炭の産地だった!

今回の体験日記は、広瀬川流域の地層に存在する亜炭と「仙台愛宕下水力発電所」がテーマです。

今、暖房に用いられている燃料は主に石油やガスですが、戦中戦後の仙台市内は亜炭だったといいます。亜炭とは400~500万年前、地上に繁茂していたメタセコイヤやセコイヤ類を中心とする樹木が火砕流などで土中に堆積し、圧力と熱で炭化したもの。戦中戦後の仙台で、風呂や暖房の燃料として用いられました。

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今回、亜炭についていろいろとお話を聞かせていただいたのは、公益財団法人仙台市市民文化事業団の学芸員・薄井真矢さん。亜炭が燃料として使われていた当時の様子を知る人たちから話を聞くなどして、仙台の亜炭の歴史について研究をし、市民のみなさんにも亜炭を通してみたかつての生活文化の魅力を知ってもらおうと様々な活動をされています。薄井さんと待ち合わせしたのが、青葉区川内追廻の青葉山公園庭球場。なんと、この周辺の崖に亜炭層が見られるというのです。

【青葉山公園庭球場】

「崖に雪がかぶってなければいいのですが…。」

と、ちょっと不安げな薄井さん。折しも、取材から6日前の1月30日、仙台で23センチの大雪を記録したばかりで、路面にもまだ一部に雪が残っている状態でした。しかし、崖の方に歩みを進めると、ちょうどいい具合に地層が見えて―。

「あの上の方にある黒い部分が亜炭層ですよ。」

【青葉山の亜炭層】

そう薄井さんに教えられて目を移すと、確かにそこには周囲の地層とは異なる黒々とした部分が!私には初め、ただ黒く濡れているようにしか見えていませんでしたが、実はそれこそが亜炭層だったのです。

【青葉山の亜炭層】

「七ツ森周辺の火山が大噴火した際に、この亜炭が出来たとみられています。天守台下には昭和40年頃まで炭鉱があり、働いていた人たちも追廻地区で暮らしていました。八木山地区や向山地区などにも炭鉱があり、家族経営的な小規模な企業が多かったそうですよ。」

【炭鉱について語る薄井さん】

そう語る薄井さん。今の様子からは当時を想像もできませんが、確かにその頃の地図には炭鉱や関連した建物がありますし、今も残っている石碑の写真などを見せてもらうと、やはりここには炭鉱があったのだなと実感。仙台は足元から生活燃料の亜炭が採れる街だったのです。

【今も残る石碑】

昭和22年頃、川内キャンプ(キャンプ・センダイ)で撮影された写真も見せてもらいましたが、亜炭を燃やした煙で街並みが霞んでいる様子が分かりました。当時は「燃えると微妙な匂いが漂い、たそがれ時ともなると路地に紫煙がなびいた。その匂いと煙で夕方になったことを知り、一家だんらんのぬくもりを教えてくれた」(市史せんだい vol.12より)そうです。石炭に比べ燃えにくく煙が出やすい欠点があったのもの、安価だったために重宝されていたとか。同じ亜炭でも品質に優劣があり、いい亜炭は黒々としたツヤがあるということです。

【昭和22年(1974)頃の仙台市の川内キャンプ(キャンプ・センダイ)
所蔵:仙台市歴史民俗資料館】