vol.14 天守台に向き合って立つ経ヶ峯の崖が物語るもの

フリーライター/西大立目祥子

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細長くのびる花壇のまわりを急転回し、経ヶ峯の下を流れる広瀬川。天守台の中ほどにあるひときわ高い「昭忠塔」が、戦前と今をつなぐ。その左に見える伊達政宗像は昭和28年に建った平服姿のもの。仙台城跡と経ヶ峯の位置関係がこれほど明快にわかる写真はあまりない。(撮影 小野幹)

■城から経ヶ峯の崖を見下ろす

昭和30年(1955)、10月25日、写真家・小野幹さんは、新聞社のチャーターした小型飛行機で矢本飛行場に飛び、来仙するニューヨークヤンキースを出迎えた。大型旅客機の発着できる飛行場がまだ仙台になかったからである。選手たちは汽車で仙台に向かい、小野さんは飛行機で仙台に戻った。その帰り道に上空から撮影したという仙台城跡一帯の写真である。

当時、青葉山にはまだ米軍が進駐し、広瀬川の堤防は建設中ではあったものの完成はしていなかった。左上から舌先を伸ばしたような形で広がる花壇は家もまばらで、戦後立て続けに襲った台風の爪痕が残っているように見える。

1600年代初め、原野だったこの地にまちづくりを始めた伊達政宗は、標高約100メートルのこの高台に城を定め、川の対岸に城下町を建設した。広瀬川を自然の外堀と見たわけである。写真を見ると、なるほど城にとって急転回して向きを変える広瀬川は二重の外堀だった、と気づかされる。

そして、城から眺めたとき、存在感を持って迫ってきたのは経ヶ峯の崖と森であったろう。そこは鎌倉時代から、霊験あらたかな場所と言い伝えられていた場所でもあった。城から川とこの崖を眺めていた政宗が、死後はここに葬るように、と遺言を残したのも自然な思いであったように感じる。

いまは、樹木が視界をさえぎって天守台からこの崖は望めないが、花壇の川原に下りて見上げると、白っぽい地層の重なりの中に黒っぽい層が挟み込まれているのがわかる。亜炭層だ。一帯には亜炭が埋蔵されているのである。

経ヶ峯の地層を見る

経ヶ峯の崖には、数百万年前の湿地の時代の地層が積み重なる。その中に亜炭層が走っている。

子ども時代を霊屋下で過ごしたという梁川健一さん(仙台市在住)にこんな話を聞いた。「経ヶ峯にも天守台にも亜炭採掘の坑道が残っていましてね、探検隊と称して、ロウソクを持って入り込み、よく遊んだものですよ。立って歩けるような大きなものでした」。昭和30年代までこの一帯で盛んに行われた亜炭採掘に、興味がかき立てられた。