vol21. 震災で失われた貞山運河の拠点集落「蒲生」

-その歴史景観の記録復元-

東北学院大学経営学部教授 斎藤善之さん

2011年3月11日に発生した地震とそれによって引き起こされた巨大津波は仙台平野の沿岸部にも甚大な被害をもたらした。津波の波高は仙台港付近で7.2mに達していたとされるが、蒲生地区は仙台市域のなかでも特に甚大な被害を被った地区であった。仙台市域の死者行方不明者の総数は934人に及ぶとされる。また貞山運河(御舟入堀)の開削以後400年にも及ぶ歴史によって作られてきた固有の集落景観も完全に失われてしまった。ここでは貞山運河と共に成立展開してきた流通拠点集落としての蒲生の歴史を振り返るとともに、失われた歴史景観を記録上ではあるが復元しようとするものである。

■御舟入堀おふないりぼりの開削と蒲生御蔵(御蔵場)の成立

蒲生の地は近世になって開発される以前は、蒲沼がまぬまと呼ばれる一面の湿地であったという。

寛文10(1670)年、仙台藩は、七北田川の河口にあたる蒲生と松島湾の西端にあたる塩竈・東宮浜とを結ぶ御舟入堀を開削した。これにより蒲生は御舟入堀と七北田川(さらには船曳堀を経て苦竹に至る)と中継する舟運の結節点として位置づけられることになった。ここから蒲生は急速な発展をとげる。蒲生には明治初年には67艘もの日本型舟(50石未満漁船)があったことが知られるが、こうした船が蒲生を拠点とする運河輸送の担い手になっていた。

御蔵場の現状

蒲生で中継される諸物資のなかでも最も重要ものは米であった。北上川・迫川・江合川・鳴瀬川流域の広大な穀倉地帯で生産された米は、仙台藩の年貢米(御穀)および買上米(御買米)として河川を舟で輸送され、多くは石巻から江戸市場に送られたが、ほかに相当量が仙台城下の町民の食生活を支えるため運ばれた。

蒲生は仙台に送られる米の中継拠点として重要な位置を占めることになった。御舟入堀を行き交う平田船から、七北田川を行き交う高瀬船への積み替えを行う中心施設が蒲生御蔵であった。御舟入堀に面して堀込み水面の「舟溜り」(東西25間、南北15間)が造られ、蒲生に到着した平田船がここに停泊した。地元の伝承によればここの護岸は石垣で築かれていた。

■流通都市蒲生の機能

その奥に周囲を堀で囲まれた御蔵場があった。ここには「御米蔵」6棟(御穀米・御買米を収納保管)、「御塩蔵」4棟、「御米入長屋」1棟「御塩入長屋」1棟、「御舟抜長屋」1棟、「御役所」2棟といった建物があった。この蒲生御蔵は米10万俵および御塩蔵10万俵を収納できたという。

御蔵場に収容された米を計量する役職として「御升取」が置かれていた。これについては、輸送中の米が減損分を農民や船方が負担させられる慣行に同情した蒲生の御升取某が米の計量に手心を加えていたが、これが露見して死罪になったとの伝説がある。さらにこれを地元民衆が祀るため建立した供養塔が藩吏によって運河に投棄されたが、民衆はこれを回収して再び祀ったという伝承が残る。

御蔵場において米穀の荷役労働に従事したのが「小揚」である。小揚人たちは小揚講中と呼ばれる集団を組織していた。また荷役作業中に歩み板から転落する事故が相次いだため、山形から来ていた小揚人(吉田吉之助・遠藤弥左衛門ら)が世話人となって天保14年に船溜まり付近に「湯殿山碑」が建てられた。この碑は今回の震災で根本から折れたものの現地に残されている。

津波により倒壊した小揚講の石碑