■蒲生の町場の発展

御舟入堀の開削と蒲生御蔵の成立によって、海岸湿地には急速に町場が形成された。七北田川の対岸にある南蒲生からは集団で移住がおこなわれたほか、周辺集落からは次三男らが来住したという。ほかに各地から働きに来ていた普請人足らも定住し、ここに新たな町場が出現した。

昭和30年頃の運河と旧蒲生北閘門(『町蒲生』)

町並みは、蒲生御蔵・舟溜りを起点として運河沿いに七北田川河口付近に至る二筋の道に面する屋並みと、船溜りの対岸へ渡る橋を起点として運河沿いに塩竈・大代方面に向かう街道に面する家並みからなっていた。

蒲生から苦竹までの物資の輸送経路は、藩政時代は舟曳堀を行き交う高瀬船によって担われていたが、明治の廃藩によって舟曳堀の維持管理がなされなくなると舟運は衰え、馬背や荷車による陸上輸送がこれにかわった。明治14年、蒲生には馬120頭が存在していたという。いっぽう塩竈と蒲生を結ぶ御舟入堀の舟運は存続しており、塩竈~蒲生間を往復する約30人乗りの定期船、蒲生丸・高砂丸が就航していた。

震災によって失われた町蒲生の中心通り

さらに明治15年には御蔵場を起点として仙台駅に至る木道も敷設された(明治20年頃廃止)。この頃の仙台向け荷物としては砂糖・塩・ニシンなどが主であった。

宿屋には松葉館・とうだ館があり、荷宿(「荷物請負問屋」)は明治8年開業の鈴木家があった。ほかに米屋、肥料店、駄菓子屋などの商店、左官(カベ屋)、石工、太鼓屋などの職人も多かった。

明治42年頃、塩竈の魚問屋で豪商の鈴木家が海岸砂州を切り開いて養鰻場を造成した。当初は繁昌していたが、やがて病気などの発生により経営が低迷すると、山形の山口氏がこれを譲り受けコイの養殖をおこなう山口養魚場と改称した。その後、伊藤氏がここに参入して丸新養魚場を創業した。2つの養魚場は存続していたが、今回の震災により壊滅的被害を受けてしまった。

以上を地図にまとめてみたものが図1である。昭和30年頃の町並図に当地の歴史景観の特長である貞山堀(水色)、街路(茶色)、町並(紫色)を施してみたものである。

なお今回の作業にあたり、震災前の蒲生の集落をよくご存じの地元の方々に聞き取りをさせていただいた。(ヒアリング日時:2013年2月20日 、ご協力:高橋實氏/平山みつい氏/菅野敏雄氏)そのご記憶をもとに震災前の町並景観と住民の様子の復元を試みた。ご協力くださった方々には感謝申し上げる。また地元学の会編『町蒲生』にも多くを教えられたことも付記したい。

図1:蒲生の歴史復元マップ