vol19. 東日本大震災と広瀬川の生物たち

-「復興に向けて」ヒトと自然の関わりあい方を考える-

東北大学 大学院農学研究科 水産資源生態学分野 助教 伊藤絹子さん

広瀬川ではサケ稚魚が海へ向かい、アユ稚魚は遡上する季節を迎えました。東日本大震災から1年。私たちはこの間、それぞれの思いを胸に歩んできました。1年を経てもなお、いたるところに大きな障壁があり、なかなか思うように進めないことに、焦燥感を抱いている人も多いかもしれません。私たちの研究室では、広瀬川をフィールドとして生態学的な研究を進めてきていました。震災後もアユやヤマトシジミなど内水面漁業として重要な水産生物の生態について調査を続けています。ここでは、研究により分かってきたことを紹介するとともに、「震災からの復旧・復興のために大切なこととは何か」考えてみたいと思います。

写真1 広瀬川におけるアユの調査定点(郡山堰)

■津波襲来とアユの稚魚

平成23年3月11日、広瀬川ではサケの稚魚が川を下り海へ向かっていたころでした。一方、アユの稚魚は、閖上周辺の砂浜で川への遡上準備をしていた時期でした。そこに大津波が襲来し、河口から約10kmの上流域までさかのぼりました。瓦礫やヘドロの堆積など、川の環境は大きく変化しました。震災後2カ月の5月6日、宮城県内水面試験場、広瀬・名取川漁業協同組合と共同で、第1回アユ遡上調査を実施しました。投網10回でアユは全く採集できませんでした。

第2回(5月11日)では、10個体が採集され、同時に体長約5cmのサケ稚魚も一緒に採集されました。第3回(5月26日)では45個体採集されましたが、5~6月の平均は、例年より大幅に少ない結果となりました。11月まで定期的な調査を行いましたが、投網1回あたりの採集個体数で比較すると、1/10~1/3程度でした。一方、体サイズは例年より大きい個体が多いことが特徴的でした。図1は2008年8月と2011年8月の天然アユの体長組成を示しています。2008年は体長90mmにモードがありますが、2011年では120mm以上の個体が多くみられました。生息密度が低下し、食物環境との関係が例年より良かったことが要因として考えられます。8月下旬以降のアユでは生殖腺の発達も確認され、例年と同じような産卵シーズンを迎えていたようです。

図1 広瀬川(郡山堰)における天然アユの体長組成

ここで、アユの生態について少し詳しくみていきましょう。
アユは秋に川で誕生します。生まれたばかりの稚魚(仔魚)は海へ下り、冬の間は海で生活します。アユの誕生日を知る手がかりがあります。内耳の中にある硬組織の耳石とよばれるもので、長径は数百ミクロンです。耳石に刻まれている同心円状の模様(木の年輪のようなもの)です。1日1本ずつ形成されることが分かっているので、その数から推定できるのです(写真2)。広瀬川では、孵化のピークは10月ですが、9月から11月くらいまでみられ、早い個体と遅い個体があり、変異が非常に大きいことが分かります(図2)。翌年の早春まで、海で過ごしたアユ稚魚は水温が10℃以上になると川へ遡上はじめます。河口にはいり、汽水域を通り上流へとのぼってゆきます。

図2 広瀬川の天然アユの孵化日組成(2010年採集)

■汽水域の重要性

アユは海中生活期と河口に入ってきたばかりの時は動物プランクトンを食べています。汽水域を遡上している間に、成長しながら、そして、食物も変えてゆきます。動物プランクトンから石の上の珪藻へと変化します(写真3)。これは櫛状の歯の発達とともに進行します。その発達のしかたは個体差が非常に大きいこと、さらに、汽水域での生活が体サイズの変異と関係し、上流域の生活期まで影響していることが分かってきました。このように汽水域は川と海の単なるつなぎ目ではないこと、アユ稚魚の発育・成長を支えている重要な環境であるといえます。

さて、津波との関係について戻しましょう。津波はこの汽水域に甚大な影響を及ぼしています(写真4)。二枚貝のアサリ、イソシジミの死貝が大量に川底や堤防のあちこちに散乱していました。地盤沈下、河川地形の変化などにより、海水の流入が以前より多くなり、ヤマトシジミの生息場所も大きく変わっていることが明らかになっています。下流域では干潟が拡大したような場所もあります。また、ヘドロが堆積している場所もありましたが、時間の経過ともに少しずつ戻ってきている様子がうかがわれます。

写真3-1 動物プランクトン
(海中生活期のアユの食物)
写真3-2 珪藻
(河川生活期のアユの食物)
写真4 津波により運ばれたテトラポット(広瀬川下流の名取川汽水域