解説ページ

1.
17世紀前半までは村請だったのが、仙台藩の政策が転換され、村請をやめて仙台城下の商人に入札制で請け負わせることにしたため、木流しの事業は入札制になりました。入札制により仙台藩はより少ない費用で効率的に木流し事業を行えたと考えられます。また、大雨・台風などによるリスクも一定程度、商人に負担させることができました。そして商人は、公的な木流し事業を成功させることによる信用の獲得と利益を目的としていました。政策転換の背景には、このほかにも燃料供給量の増大があったと考えられます。

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2.
仙台の山間地の農民は冬場にも炭焼き・薪伐りなどの山仕事ができるので、危険度の大きい奥山の木伐りの労働力を安定的に確保しにくかったと考えられます。それに対して、南部・津軽・庄内の山間地農民は、冬場に全く山仕事ができなくなり、賃稼ぎの手段がなくなるため、これらの地域の農民をより安い賃金で安定的に労働力として確保することができました。

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3.
広瀬川の澱橋手前の角五郎丁の澱河原に木場を設け、これを角五郎木場と呼びました。

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4.
木流し堀の木場で現在の仙台南高校敷地。

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5.
馬に荷をのせて送ること。

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6.
のちに宮城農学校、現在は仙台南高校敷地。

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7.
戊辰戦争で幕府側の仙台藩が官軍(新政府軍)と戦い敗れたために、明治元年に領地が没収され、その一部が、伊達氏や南部氏にあてがわれ、残余の土地が明治政府の直轄地になりました。このため、明治2年以降に仙台藩営の流木事業が中断されました。

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8.
明治4年~19年に、廃藩置県によって任命された県の長官。

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9.
明治29年・30年と大倉区民が一般公衆とともに競争入札をすると、払い下げ予定価格に達せず、2年間払い下げが実施されませんでした。そのため、山仕事に依存している大倉区民の生活が苦しくなり、支障をきたしました。そこで、仙台小林区署長が訓示により大倉区への特別払い下げを行い、その後それが慣例化されました。

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10.
上流の沢に100メートルくらいの間隔ごとに木を材料に「鉄砲堤」を作り、沢の水をせき止め、水かさをあげて、いっきに堤をあけて、そのときの水の勢いで下流まで木を流します。これを何度も繰り返します。

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11.
大倉川の木流しでは、大倉川の定義の角岩という地名の場所に中揚を設けました。

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12.
大倉川の木流しでは、仙台市民プールとその周辺の場所が木場でした。明治時代の木場は、澱橋手前の角五郎木場でした。

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13.
1棚(流木薪を5尺四方に積んだ単位)あたり、卸価格の平均で明治32年度が1円36銭、明治33年度が1円65銭、明治35年度が3円でした。

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14.
馬の背に荷をのせて運搬するとき、仙台地方では馬と荷物と馬の手綱をもつ人をさして駄子馬(だんこうま)と呼びました。

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