■夢のレジャー施設をつくった紅久

吊り橋を初め、野球場、遊園地といった一大レジャー施設を建設したのが八木久兵衛なる人物だったことを知る市民は、いまどのぐらいいるだろう。代々、久兵衛を名乗る八木家は幕末から「紅久」の名で知られた豪商で、明治に入ると4代目久兵衛は味噌醸造業を始めて財を築き、商工会議所会頭をはじめ要職について活躍した。4代目が構想し、5代目が実現したのが、八木山一帯の開発だった。

事業着手は大正末、当時、越路山とよばれていた山を丸ごと買収し、工事のための道路を造ることから始まった。開発面積は10万坪ともいわれ、工事費用は紅久が全額を出資した。

5代目久兵衛の孫に当たる紅久の代表取締役専務、八木邦男さんは工事についてこう話す。「開発の背景には、当時国民病といわれた結核を何とか撲滅したいという4代目の思いがあったようですよ。空気のきれいなところで過ごす転地療法がいいといわれていましたからね。吊り橋の工事では一人亡くなっているんです。5代目は、人柱になったのだと落胆していたようです」。

当時、仙台では結核の罹患者が多かったといわれる。まさに篤志家として、山の開発に仙台市民の暮らしの向上を願ったのだろう。八木家の開発で越路山は八木山とよばれるようになるが、昭和9年、紅久は吊り橋と幹線道路を含むすべての施設を県と市に寄付した。

八木家のこうしたふるまいが市民の中に共感を生んだのかもしれない。新たに生まれた名所を花見の名所にしようと、昭和10年には市民有志が枝垂れ桜1000本を寄付、12年には仙台芸妓置屋組合が枝垂れ桜276本、吉野桜534本を植えている。桜は大きく育ち、多くの仙台市民を楽しませた。小野さんの写真に写る桜も、このとき植樹されたものに違いない。

八木山動物公園前の五代目久兵衛の像

入り口前の広場に、八木山開発を成し遂げた5代目久兵衛を顕彰する胸像がある。

戦時下、野球場や公園は廃れたが、戦後、紅久は野球場の土地を仙台市に無償で提供、昭和40年10月に八木山動物公園に生まれ変わった。そして、3年後、紅久は戦前からの思いを受け継ぐように八木山ベニーランドを開園する。

「市民がここでもっと楽しめるようにと思いましてね。相乗効果はあると思いますよ」と八木さん。八木山動物公園の門の前には、八木山開発に生涯をかけた5代目久兵衛を讚える胸像が立っている。