vol.27 "杜の都"の暮らしを取り戻して、子どもたちへ

フリーライター/西大立目祥子

広瀬川の川岸に広がる西公園。この公園は広瀬川を見下ろせるのが大きな魅力だ。中ノ瀬橋の左手には市民図書館が見え、左手前では「植木市」が開催されている。公園内にはたくさんの歩く人の姿がある。昭和52年。(撮影/小野幹)

■熱心に庭づくりをしたあの頃

広瀬川をはさんで、左に西公園、右に川内大工町。今回、小野幹さんが出してくださった写真を見て、あらためて西公園は川岸の公園なのだと思った。公園の際の切り立った崖が、豊かな緑を茂らせて水辺を縁取る。

遠望する山にピンク色の樹木が点在しているところを見ると、季節は葉桜の頃だろうか。西公園にも多くの人影が見え、草の上でお弁当を広げるようなグループもある。そして、ひときわ人の姿の多い左下の白いテントのあたりは、どうも植木市のようだ。屋号の書かれた白屋根のテントから通路にせり出した植木が見え、花木らしい赤い色もある。“杜の都の植木市”といわれ久しいが、一体始まったのはいつなのだろう。

仙台市公園課にたずねると、スタートは昭和55年(1980)。その数年前から、県庁前やレジャーセンター前(現・錦町公園)、駅東口などで開催し、西公園で本格開催となったという。写真はその3年前のものだが、植木に関心を寄せる市民の増加が本格開催へ弾みをつけたに違いない。

スタート時は、本当によく植木が売れたらしい。造園業を営むかたわら「杜の都づくり植木市協賛会」事務局長を務める内海一富さんは、「いまは出店する業者は20ほどですが、当時は60店舗。盛況で、親父の話ではトラックから植木を下ろす先から売れたっていいますよ。高度経済成長期は、家を建てて庭をつくる人が多かったですからね」と話す。仙台市の人口がうなぎ上りに増え、郊外の丘陵地が団地開発されていった時代、人々は念願のマイホームを持つと、庭に植木を育て季節の花を楽しんだのだ。マイホームとは、あくまで家と庭がセットのものと認識されていたのだろう。

「“杜の都の環境を守る条例”を昭和48年に制定したのを契機に、緑を守ることと緑化を進めることを、両輪で推進しようとしたんですね。 “植木市”は条例制定を受けて、市民の方々にもっと木を植えてもらおうと始まったことです」と話すのは、西公園を管理している青葉区役所公園課だ。急激な都市化による緑の喪失をふまえ、身近なところに木を増やそうとしたのだ。 “木を植えよう”という呼びかけを“植木市”という場をつくって実現しようとする試みは市民の胸に響いた。内海さんの話は、共感し行動する市民がいかに多かったかを教えてくれる。ちなみにこの条例は、“杜の都”という呼称が初めて正式表記と使われたものだった。

現在の西公園

木の高さがぐんと増しているのがわかる。中ノ瀬橋の下流には地下鉄東西線の橋梁も姿を現した。