vol.28 おだやかな田畑の中を川は変化しながら流れた

フリーライター/西大立目祥子

木造の家並の中を流れゆく広瀬川。50数年前、街はこんなにも低かったのかと驚かされる。田畑の中をゆったりと進む下流の流れは、大雨のたびに変化するものだったという。 昭和30年10月25日。(撮影/小野幹)

■かつての川の上に暮らす

黒々とした家並みの間を、広瀬川が光を受け流れていく。途中、屈曲した先で見えなくなった川は、海に注ぐ手前で再び姿をあらわしている。手前には宮沢橋、その向こうには広瀬橋と鉄橋が架かっている。

川に寄り添うように、「く」の字を描いて延びるのは旧国道4号線だ。右翼の下に広がるのは、荒町(現・若林区)あたり。戦災をまぬがれた木造家屋の中に昌伝庵、仏眼寺の2つの寺の屋根が確かめられ、翼の先の方には黒い瓦屋根を載せた木造の南材小学校が見える。

仙台は戦後相次ぐ台風の被害に見舞われ、中でも昭和25年の被害は特に厳しいものだったが、30年に撮影されたこの写真では復旧工事が進み、川は両岸ともにコンクリートの護岸がなされたあとのようだ。だが、広瀬橋の先に、まだ橋はない。遠く、田畑の中をゆったりと流れゆく川は、大雨のたびに氾濫し流れを変えていく下流ならではの姿を想像させる。

鉄橋の下

広瀬橋のすぐ下にある鉄橋。「すごく深く飛び込む人がいた。」という話を想像するのは難しい。

実際、護岸工事される前の川は、いまとはずいぶん違った姿だったらしい。「川はそっちゃ流れ、こっちゃ流れ」と話すのは、広瀬橋左岸たもと、大ケヤキで知られる旅立稲荷神社の宮司、荒井浩さんだ。荒井さんによると、増水のたび広瀬川は、左岸に寄ったり右岸に寄ったり流れを変えるものだったという。

同じように、少し下流の若林3丁目に暮らし、子どものころから川に親しんできた安達勝さんも、こう話す。「川は、いまの若林小学校の校庭の半分ぐらいまできてたかな。つまりもっと北寄りのところを流れてたんです。ハヤ、オイカワ…魚がたくさん捕れたねえ。堤防ができる前は、道路(宮城県道54号線井戸長町線)が堤防の機能持ってたんだと思いますよ」

かつての川の流れや周辺の土地の性状を記した治水分類図という地形図がある。国土地理院がウェブサイトで公開していて(※)、眺めてみると興味がつきない。

確かに、安達さんの話のとおり、県道は「旧堤防」と記され、住宅が不規則な並びになっている一帯は「旧河道」とぴったり重なる。安達さんのお住まいの近くなので、「このあたりが川跡だと聞いたことはありませんか」、とたずねると、さあてといった表情のあと、「川だったというのは納得がいくね」と、答えが返ってきた。「ここ3メートル掘ると砂なんです。それにいい井戸水が出るんだ。昭和47年の渇水のときも、この大震災でもうちのは枯れなかったですよ。川だったからじゃないのかな」。

安達さんのご紹介で訪ねた菅野ハルミさんのお住まいは、まさに不規則な並びの一画にある。「昭和25年に越してきたときは、人が流された話をずいぶん聞かされたんです。ここ?ここは川だったって、地主さんがいってましたよ。だからちょっと掘ると石がゴロゴロ」と、菅野さん。土地の記憶は、薄れつつもいまに伝えられているのだった。

旅立稲荷神社の大ケヤキ

見事な枝ぶりにケヤキのもともとの樹形を教えられる。樹齢は200年。仙台市の保存樹木。