vol.21 愛宕大橋が大きく変えた愛宕山の風景

フリーライター/西大立目祥子

愛宕大橋開通の日

1975(昭和50)年10月1日の渡り初めのようす。上下2車線の暫定開通だったが、周辺の渋滞は一気に緩和された。翌年3月には仙台市電が廃止されている。(仙台市広報課提供)

■愛宕大橋の渡り初めの日

「祝愛宕大橋竣工」と書かれた横断幕の下に車が連なり、大勢の人が集まっている。子どもの列のわきを歩くのは着物やスーツなど、どこかあらたまった服装の年配者だ。そのようすから、愛宕大橋の渡り初めの日の1コマだろうと見当がついた。

愛宕大橋の開通は1975(昭和50)年10月1日のことである。翌2日の河北新報には「ラッシュ渋滞うそのよう」「車の流れスイスイ」と見出しの文字が踊っている。高度経済成長の時代、人口の増加が続く中で、愛宕橋、宮沢橋、広瀬橋の3つの橋だけでは、もはや仙台市南部と中心部を行き来する車の流れを処理することは難しくなっていた。

橋の開通は、近辺の慢性的な渋滞を解決し、また、国道286号と接続して東北自動車道南インターチェンジへの直行を可能にした。仙台中心部と首都圏を結ぶ大動脈もこのとき整ったのである。

愛宕神社の名誉宮司、郡山宗英さんは、渡り初めのこの日、安全を祈願し橋の上で祝詞を上げた。「架橋工事は前年の12月に始まり、ものすごいスピードで進みました。

渡り初めのときは、橋の中央に祭壇を組んでお祓いし、向山にお住まいの親子三代のご夫婦、荒町小の子どもたち、仙台市消防音楽隊が南から行進し、北端まで進んで戻ってきたんですよ」と、手元に保管してきた祝詞の巻紙を広げて、そのにぎわいを話してくださった。

愛宕神社の名誉宮司郡山宗英さん 

1974年12月、愛宕山を切り崩す工事の前には地鎮祭を執り行ったという。

1966(昭和41)年に計画が出されてから、約10年近くの間、郡山さんはひんぱんに仙台市役所に通い、担当職員と膝詰めで、橋の形や橋の名前、工事中の参道のことなどを話しあったという。「“愛宕大橋”という名前も、橋のたもとに飾ってある石のモニュメントも、私の案が通ったんですよ」と、大工事を感慨深そうに語る。

架橋によって交通基盤が整う一方で、愛宕山の尾根に張りつくように続いていた愛宕神社の長い参道は、中腹から山すそにかけての部分が大きく削り取られることになった。1650(慶安3)年、城下町を見下ろす愛宕山山頂に遷座されてから300年以上にわたって参拝者に親しまれてきた愛宕神社の景観は、このとき大きく様変わりした。

愛宕山からの眺望

愛宕神社境内から愛宕大橋を見下ろす。ビルが高くなり、河岸段丘の傾斜は確かめにくくなった。
今回の「広瀬川の記憶」の参考地図
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