vol.20 関山街道の通行を守り、山間地の暮らしを支えた野川橋

フリーライター/西大立目祥子

野川橋を通って山形へ

笠をかぶった人や馬車が通る野川橋。にぎわいがわかる。遠くの山に斜めに走るのが熊ケ根へと通じる坂。(宮城県図書館蔵)

■地元の人に聞く野川橋のにぎわい

小さな橋を訪ねたくなった。仙台市中心部にあり仙台市民なら誰もが知る大橋のような橋もいいけれど、地域の人々にしかなじみのない橋にも、暮らしをしっかりと支えてきた物語があるはずだ。

宮城県図書館で、古びた絵ハガキを見つけた。右から左に「作並街道 野川橋」と記されたハガキには、木橋の上を笠をかぶって歩く人や人力車、馬車の姿が写っている。山間地に架けられた小さな橋ながら、仙台から山形への関山街道の道筋としてにぎわいを見せたことがうかがわれた。

早速、車を走らせた。野川橋は、JR仙山線の白沢駅と熊ケ根駅の中間地点、国道48号の北側を蛇行する広瀬川に架っている。上愛子小学校の前から道半(どうはん)という集落に入り、小学校裏の長い坂を下ると、急に視界が開け小さな橋に行き着いた。橋はまだ新しく、川床の石が見えるほど低い。上流を眺めると、黄金色の田んぼの向こう、ずっと高いところに熊ケ根橋の赤い鉄橋が望めた。

野川橋は熊ケ根の町へと通じている。その道は急な坂道のあと、ヘアピンの形に中折れして、さらに上り坂となる。切り立つ峡谷に熊ケ根橋が架けられたのは、昭和29(1954)年。それまで、関山街道を山形へ抜けるには、野川橋を渡り、この急坂を上がらなければならなかった。深い谷が続く中で、崖の最も低い位置を選び抜いて架けられたのが、野川橋であるのだろう。

野川橋から熊ヶ根橋を望む

山並みをつなぐように熊ヶ根橋赤いアーチがかかる。右の山は昔のままだ。

道半の集落で、話をうかがった。ここに60年暮らしてきた太田ふみよさんは、「道半の人たちは、野川橋渡って坂上がって、呉服でも何でも買い物はみんな熊ケ根に行ったよ」と話す。武田信雄さんは野川橋をよく渡ってたのは熊ケ根の小学生だ。上愛子小学校に通うのにね」と教えてくださった。

熊ケ根はこの辺りでは最も人の集まる町場だった。熊ケ根で長年酒屋を営む高橋とも子さんは、「風呂敷背負った人たちが夕方になると、ぞろぞろ歩いてたのよ」と話す。息を切らす峠越えは、かなりきつかったろう。それとも案外、買い物や通学に行き来した坂は、どこか喜ばしい気持ちとともにあったのだろうか。

道半の人たちは、小学校裏の遠回りの道ではなく、山中の道を通り、野川橋を渡った。住宅地図に波線で示されているこの道こそ、二代藩主、伊達忠宗が開いた関山街道の道筋だ。「いまも草は刈ってる。行けるよ」と武田さんが指さす道を野川橋に向かって下った。大勢の人が行き交った400年来の道だ。草むらの中を20メートルほども行くと、広瀬川のせせらぎが聞こえてきた。その昔、街道を歩き疲れた人たちは、この音にほっと気持ちを和ませたのかもしれない。

今回の「広瀬川の記憶」の参考地図