■子どもたちが泳いだのは発電所の水だった

「門は、アラビアンナイトの物語に出てくるみたいな玉葱坊主を乗っけたかたち。川上に大人用プール、川下に子ども用プールが並んでいて、入場料は大人10銭、子ども5銭。50×25メートルの大人用プールは6、7のコースがあって、飛び込み台の高さは5メートル。深さも一番深いところで5メールに近かったね。飛び込むには、高さと同じくらいの深さがないとだめなんです」。

実態の見えなかったプールをつまびらかにしてくだったのは、渡邊義昭さん(昭和7年生まれ)だ。渡邊さんの家は戦前の一時期、愛宕プールの管理を仙台市から任されていたという。遊び盛りの小学生だったにもかかわらず、渡邊さんは両親を手伝い、プール掃除、水の消毒、監視、ときには新兵の水練までこなした。

70年広瀬川を見続けてきた渡邊義昭さん

広瀬川沿い、広瀬川の上流で暮らし続けてきた渡邊さんはいう。「川っていうのはいじるもんじゃない、いまにカタキとられる」その言葉は重い。

「荒町小だったからね、朝飯食ってる8時頃から友だちがくるんだ。ペロンコ(無銭入場)だよ(笑)。水は豊かで、川水と地下水をポンプで入れるんだが、いっぱいになるの待ちきれないから、みんな8分目あたりで飛び込んで…」。

渡邊さんのいう川水が、前述の水力発電所の水だろうか。引用文では向山発電所となっているが、「仙台愛宕下水力発電所」のことである。建設は仙台電気工事株式会社によるもので、操業は大正9年(1920)。追廻付近の広瀬川に潜堰を築いて取水した水を、約2キロの開渠とトンネルの導管を通して愛宕山のふもとに流し水車で発電したという。発電の際の余った水がプールにまわされた。

プールの立地は、この水の利用を目的に計画されたのだと思われる。

愛宕プールがあったあたり

いまでは河川敷の下になった。渡邊さんには歓声が聞こえるのかもしれない。

昭和8年、仙台郷土研究会の会員だった武山豊治なる人物が、付近を探索してこの発電所について一文を残している。「開渠とトンネルの総延長は1101間に及び、…落差38尺で水量は210立方尺、700馬力」と規模を示し、長町をはじめ市内の主な工場への送電が行われていると記したあと、プールについても書いている。

「此の発電所では水槽の側溝より直径三吋(インチ)の鉄管で愛宕プールに送水しているのである。其れ故愛宕プールは水の供給の点において他に勝るのである」。

この発電所は、およそ10年ほどで操業を収束させていく。もともと落差が少なく、加えて上流で上水道に水をとられたのがその理由のようだ。ダム建設以前から、決して大川とはいえなかった広瀬川の姿が見えてくる。

プールは戦争がきびしくなる昭和17、8年ころまで続いた。その水がどこから入れられていたのかは、小学生だった渡邊さんの記憶に頼るしかない。