■薄れていく広瀬川の記憶

水に苦労はなかったといえ、プールには川の氾濫がついてまわった。でも、洪水は慣れたもの。「川岸に笹竹があって、その水のかぶり方で増水の見通しをつけたんです。水がくる、となれば、用意していた角材を渡して畳を上げ、箪笥も2階に運ぶ。水が引くとプールには、アユ、コイ、ウナギ、ナマズがもういっぱい。バケツ10杯、20杯にもなったね」

泥水の掃除には、学校を休み弟2人と大奮闘した。再び、透き通った水の満ちるプールサイドには子どもたちの歓声が響いたろう。

当時、米ヶ袋に暮らしていた渡邊慎也さん(昭和6年生まれ)は、「ふだん泳ぐといえば、霊屋下。プールに行くのは、いわば東一番丁に行くようなものでしたよ」と笑う。プールに行けるのはひと夏に一度か二度の晴れの日だったのだ。渡邊さんがプールに通った昭和16、7年頃、米ヶ袋から対岸に渡る木橋があったという。プールまで最短の橋を子どもたちは、はやる気持ちで渡ったに違いない。「幻の橋ですよ」と渡邊さん。これもまた興味のそそられる話だ。

昭和18年頃、戦時色が強まる中で愛宕プールは閉鎖され、東北帝大の軍事機器開発の研究施設になった。深さのあるプールに屋根を架けて利用したらしい。戦時中は、米軍の爆撃を受けたという。

やがて敗戦。戦後の度重なる水害のあと広瀬川はコンクリート護岸されて、プールの痕跡は完全に消えた。いまも近くに暮らす渡辺さんに案内していただくと「プールはこのへんだったね」と指さすその先は、ちょうど河川敷あたりだ。記録すら乏しい中、愛宕プールの記憶は、もはや戦前生まれのある限られた世代だけが共有する思い出になっている。

だが、水力発電所の痕跡はまだある。近年、東北工業大学工学部の松山正將研究室が導水トンネル内に入り込み、その全貌を明らかにした。5本の横坑を備えたトンネルの横断面は、大きいところで高さ約3メートル、幅2.5メートルに及んでいる。

現場を見たいと思い近づくと、ちょうどプール跡から数十メートルさかのぼったあたり、夏草におおわれた崖面の上の方に隧道の跡が残っていた。明らかに人の手が加わっているとわかるトンネル跡で、わきにはレンガを配した工作物もある。プールと同様に、この発電所の記憶もこのまま薄れていってしまうのだろうか。

愛宕下水力発電所の2つの隧道

ここが水の出口だろうか。見上げるとトンネルは2つあった。

発電所跡の工作物も残る

隧道の左下には発電所の跡と思われる大きな工作物。高さは5メートルほどもあるかもしれない。

仙台のまちの中を何度も蛇行しながら流れていく広瀬川。この複雑な地形ゆえに、このまちの先達たちは仙台ならではの川の利水や活用を発想したのだろう。山陰に、崖下に、川底に、広瀬川はまだまだ私たちの知らない物語を隠し持っているように思える。

対岸へ幻の橋を渡って

対岸は土樋。米ヶ袋の縛り地蔵あたりから対岸へ渡る木橋があったという。いまはすっかり穏やかた川面

対岸は土樋。米ヶ袋の縛り地蔵あたりから対岸へ渡る木橋があったという。いまはすっかり穏やかた川面


●参考文献
『宮城県体育協会史』 (財)宮城県体育協会 昭和64年
「仙台市野郷土地誌的概観」武山豊治
「仙台郷土研究第3巻6号」仙台郷土研究会発行
「広瀬川沿いの「仙台愛宕下水力発電所導水トンネルについて」」松山正將
「SURF 2001Vol.4」仙台都市総合研究機構発行