vol.16 「一銭橋」の記憶を残し、里と町場をつなぐ宮沢橋

フリーライター/西大立目祥子

撮影/小野幹 昭和40年(1965)4月

架橋されて10年後の宮沢橋。戦後すぐの水害のあと堤防が築かれ、昭和30年に悲願の永久橋が架けられた。

■「根岸の里」の小さな木橋

手前から静かにせり上がっていく道の感じと、右上の杉の木立ちで場所の見当はつくだろう。「宮沢橋」を広瀬川左岸上空から写したものだ。対岸は太白区根岸町、手前は若林区河原町一丁目、堰場どうばとよばれるあたりだ。

対岸右上の丘陵は大年寺山。左端に見える建物と敷地は、当時ここにあった宮城県農業高等学校である。

いまはずいぶんと、様変わりしている。対岸の堤防沿いに広瀬河畔通が整備され、山際を国道286号が走り抜け、交差点は大変な交通量だ。

でも、昭和40年のこの当時は、まだのんびりした空気が流れていた。橋の上の車はわずか2台。橋の右岸上流には畑らしきものが見え、水辺にはたくさんのボートが並ぶ。川面に1艘も浮かんでいないのを見ると、撮影は早朝だったのだろうか。

クリックで拡大

橋を渡りきった右上、大年寺山のふもとに樹木に埋もれるように屋敷がある。長町で茶舗を営む大竹誠一さんのお宅だ。大竹家は、明治3年(1870)、このあたり一帯に広がっていた茶畑を旧仙台藩から譲り受け、東一番丁から移ってきた。

昭和12年(1937)、食糧増産を背景に麦畑に変わるまでは一面茶畑だったというから、昭和のはじめ生まれの人なら、その風景をいまも覚えているだろう。大年寺山の南斜面で日当たりがよく、背後を山に抱かれて北風が入らないこの地は、茶畑に最適だったに違いない。

茶畑の跡

大竹家の茶畑は、今は286号の下になった。今では想像もつかないが、日当たりの良さは感じとれる。

この環境のよさで、根岸は住宅地としても好まれた。大竹さんによると、明治の終わり頃から、退役軍人が好んで隠居したという。のんびりと余生を過ごす別荘地のような雰囲気だったのだろう。分譲もされたらしく、大正15年(1926)年の地図には「ねぎしの里」と記されている。

だが、橋についていえば、不便この上なかったはずだ。川底に杭を立て、幅30センチほどのモミの板を2枚並べただけのもの。宮農の生徒がマント姿で橋に並ぶ写真が残っている。ギシギシ、ゆらゆら…そんなことばを思い浮かべてしまう何とも頼りない粗末な橋だ。

しかもこの当時の橋は個人所有で、渡し賃を払わなければならなかった。「林さんという家がやっていて、そのお宅は橋のたもと、渡って左側2軒目。“ 船場ふなば”とよばれていたんですよ」と大竹さん。いかにも船着き場を想像させる屋号である。

校舎を背景に一銭橋に並ぶ宮農の生徒たち

根岸には宮城農学校があった。市電を降りて一銭橋を渡り通学する生徒もたくさんいたことだろう。(仙台市戦災復興記念館所蔵)