vol.4 下流を眺めて思い起こす、大洪水の時代

フリーライター/西大立目祥子

大年寺山から望む広瀬川(撮影/小野幹)

宮城県農業高等学校の校地が眼前に広がり、その向こうをいっぱいの水をたたえ広瀬川が流れる。六郷の水田には居久根(屋敷林)があちこちに浮かんでいるのがわかる。

■田園にとけこむように流れる広瀬川下流

場所はすぐわかった。写真家、小野幹さんが今回用意してくださった写真は、私が子ども時代によく遊び親しんだところだったからである。大年寺山の東側のふもとに広がる太白区根岸町、そして長町付近である。

中央のグラウンドと校舎は、宮城県農業高等学校。前には学校田が開け、グラウンドわきには兜塚の名で親しまれてきた小さな古墳がある。川に架かるのは、広瀬橋と東北線の鉄橋。右岸に見える長町の家並みは黒々として低く、線路の向こう側には、近年まであった東北ゴムと思われる煙突の立つ工場がある。そして左岸手前は河原町。左手端には宮城刑務所の建物が見える。撮影したのは大年寺山南斜面、大年寺山配水所の近くに違いない。

撮影年はわからないと小野さんはおっしゃる。『宮農百年史』にあたってみると、グラウンドにプールができたのは昭和32、3年のようだ。川に目をやればこれより下流に橋はなく、41年の仙台バイパス開通以前であることが見てとれる。そして、橋脚の半ばまでもあるたっぷりとした水量は、36年の大倉ダム建設以前であることをうかがわせる。ビルこそまだ建たないものの、写真には落ち着きと明るさがただよう。30年代中頃と見て間違いないだろう。

写真を眺めながら、あらためて、中流域に生まれた仙台のまちも、この付近からは下流域に入ると納得した。川とまちの高低差は小さく、川は水田に溶け込むように平地を流れていく。

ダムもコンクリート護岸もない、いまよりずっと水量の多かった頃の広瀬川は、下流では大雨のたびに簡単に流れを変えたろう。そして許容量以上の雨に見舞われれば、水は堤防を突き破り住宅街を襲っただろう。それは特に下流に大被害をもたらしたはずだ。