vol.3 川面にゆったりとボートが浮かんでいたあのころ

フリーライター/西大立目祥子

川内のボートを楽しむ人々(撮影/小野幹)

昭和30年代初め。現在市民会館のある場所には、当時公会堂があった。その崖の上より対岸を写したもの。川原にたたずむ人、釣りをする人、そしてボート。川原にはいまよりずっと人影があった。

■50年経って眺めたボートの川原

晩秋ではなく、早春なのかもしれない。葉を落とした枝の下には川面がきらきらと輝き、ボートが漂っている。手前には釣り糸をたれる中学生らしき姿もある。あぁ、なつかしいと感じさせる一枚だ。

提供してくれた写真家、小野幹さんによれば、「昭和30年代初め、場所は川内川前丁あたり」。ちょうど、いまの市民会館の裏手から対岸を臨んで撮影したものである。

ここにボート屋があったという話を、以前、川内大工町の松浦牛乳店のご主人に教わったのを思い出した。早速、写真を見ていただくと、「私は昭和20年の生まれだけど、物心ついた頃にはこのボート屋はあったねぇ、確か3代変わったはずだよ」という。松浦さんは特に2代目のご主人が思い出深い。「川船も持っていてね、投網するのによく乗せてもらったんだ。ボートに乗るのは大人が多かった、アベックとか…」。

松浦さんの3歳年上でこの町で生まれ育ち、マンドリン教室を営む高橋五郎さんも、中学生はお金をかけてボートには乗れなかった、と話す。高橋さん自身、よく乗るようになったのは所帯を構えてから。「だれかが遊びにくると、ボート乗ろうかって連れ立って行ったもんです。生徒たちと行って女の子乗せたことがあったんだけど、ボートがひっくり返ってねぇ。流れの早い瀬にさしかかったら怖がって立ち上がったものだから、その子はずぶ濡れ(笑)」。

昭和30年代、小中学生たちは、アベックをどこか照れたような気持ちで横目に見ながら、もっぱら雑魚取りに夢中だったに違いない。「写真下のいまの市民会館の崖下は深い淵で、大学病院の汚水が流れ込む排水口があって、魚が寄ってきたからよく釣れましたよ」と高橋さん。同じ話を、松浦さんのほか、何人にも聞いた。ここはよく釣れるポイントとして、釣り好きの子どもたちがひんぱんに訪れる場所だったのだろう。

ボートが出たあたりの川原に立ちたいと近づいてみたが、茂る木々や草、畑にはばまれ無理だった。高橋さんは「柳の木なんかが茂ってまったく変わりました。大倉ダムができるまではは大水のたびにすべて流されて、草しかなかった」と川原の変化を指摘する。

おおよそ50年後の同じ場所

左手の樹木の太さに注目。対岸の川原には、川原に近づけないほどに木が茂る。

小野さんがカメラを構えた場所を求め、市民会館裏手に立つと、ケヤキだろうか、左から張り出した枝が太く育ち同じ場所であることを教えてくれたけれど、対岸は50年の間にすっかり様変わりし、まるで小さな林のような場所になっているのが見てとれた。