■戦後の仙台を襲った、たび重なる大水害

さて、1回目の写真を提供いただいたのは、小野幹さん(1931年~)である。仙台で戦後早い時期からプロとして活躍してこられた方だから、ご存知の方も多いだろう。

小野さんの出してくださった写真に、思わず目を見張った。大雨が降ればたちまち流されてしまうような、ぼこぼこした粗末な木橋が写っている。川岸にははしごが掛けられている。現在では想像もつかないようなこの間に合わせの橋の風景は、本当に仙台なのだろうか。

「写したのは昭和二十年代のおしまい頃だったと思うんだけどね。牛越橋あたりじゃなかったか・・地元の人が確か“五厘橋”とか、そんな呼び方をしていたような記憶もあるね」

50年前の写真だ。小野さん自身の記憶も分厚いベールをかぶっているのだった。

牛越橋の左岸は、たもとにお寺があり木が茂っていたはずだ。とすればこれは左岸ではなく右岸、つまり三居沢側を見て写したものだろうか。さっそく写真を持って、角五郎の川辺をめざした。

まずお邪魔したのは、澱橋のたもとの太田さんというお宅である。以前、橋のことをあれこれ教えていただいたことがあった。ご主人に写真を見ていただくと、牛越橋だね、という答えをひそかに期待する私に、ご主人は「うーん、澱橋じゃないかねぇ。台風で橋が壊された事もあったから、そのときの仮橋かな」とおっしゃる。だが、じっくりと写真を眺め終えると、「牛越橋にも仮橋があったね。友だちが酔っぱらって落ちて流されたことがあったなぁ」とも話されるのだった。

角五郎の店を何軒かまわってみた。酒屋のご主人は「これは仲ノ瀬じゃないか」とおっしゃり、クリーニング屋の奥さんは「見たことがないわねぇ」と笑い、一銭店屋のご主人は「いやぁ、わからないね。確かに牛越橋はよく流されたけど・・」と首をかしげた。50年前の橋の記憶は、地域の人にとってもすでにぼんやりと薄れていた。お一人だけ、「仲ノ瀬には一時期、仮橋があった。それだと思う」と話してくださった方がいた。

牛越橋付近右岸

川から住宅までの高さを写真と似ているのだが、その後ろには山が迫っている。

牛越橋のたもとに立って、似た風景はないかと川岸を眺めた。だが、両岸ともに写真のような橋の向こうに空間が見通せる場所はない。ここではないのだろうか。場所の定まらない写真は、どこか虚ろなものに見えてくる。

戦後、仙台は度重なる台風の来襲で、河川は大きな被害を被っている。『仙台市史 近代現代1』の年表を見ると、1947年(昭和22年)9月14日には「カスリン台風で、「県内河川氾濫、根岸橋流失」、翌1948年(昭和23年)9月16日には「アイオン台風来襲、七北田鉄橋流失」、1950年(昭和25年)8月1日には「ジェーン台風により、名取川・広瀬川沿岸に大被害」とある。毎年のように大被害をもたらす台風。戦時中、木を切り出したまま放って置かれた山が、水害を大きくしたのだろう。橋も流されたはずだ。小野さんが撮影したのは昭和二十年代後半だから、このいずれかの台風で流され、仮橋を架けてしのいだ時期のものに違いない。

州を見下ろす

橋から川内中ノ瀬町の家並みを眺める。

ふと、以前、仲ノ瀬橋のことを教えてくださった川内大工町の高橋林一さんが、昭和25年の大水害で橋が流されたと話されていたのを思い出した。

資料によれば、仲ノ瀬橋には、一人につき五厘の渡し賃をとった時代もあったようだ。小野さんの“五厘橋”の話ともつながるかもしれない。

高橋さんにお会いすることにした。