■反物が水に揺れた南染師町の風景

七郷堀は、仙台城下を描いたものでは最も古い正保2・3年(1645・1646)の絵図に現れている。もともとは自然の流路で、取水した水は地形の高低差だけで東部へ流れていった。どの地点から取水すれば水田地帯にくまなく水を供給できるのかを判断した、江戸時代の土木技術の高さに目を見張る。七郷堀は「堰無しの堰」ともよばれていたという。

それは、自然に堀に水が流れ入り、また用水の必要な時期には土嚢を積んで水を堰き止めていたからのようだ。この土嚢積みをめぐって、七郷と六郷の水争いが絶えなかった。昭和29年に、現在の愛宕堰が築かれるまで、上流に七郷堀、50メートルほど下流に六郷堀の取水口があり、渇水すると六郷に水がまわらなかったからだ。水は、村の暮らしの生命線だった。

南染師町の染師たちも、この水を生業に使い続けた。藩政時代に木綿染めを行っていた町は、明治時代、一気に隆盛をみる。町内で青山染物店を営んでいた青山惣吉が、遠く北海道、樺太まで販路を開拓し、受注が飛躍的に拡大したからだ。染師たちは、糊と染料を洗い落とすために、堀に反物を流した。

南染師町の堀

南染師町を流れる堀。かつては反物が流され、両岸には大きな千し場を持つ染物屋の工場が並んだ。2008年(平成20年)撮影。

「職人さんたちが階段で堀に下りて行って、水で洗ったのよ。一反の染物が堀に5、6枚並ぶような感じだった」と話すのは、福助屋という染物店の長女として育った庄司春子さんだ。家にはいくつもの藍の染料が入ったかめが並び、職人さんたちは発酵具合をなめて確かめていた。藍染めの反物を流すのだから、水も染まる。「そう、堀の水も藍色になったよ」と、そばで聞いていた妹の相沢紀子さんが相槌を打つ。「水が必要なときはね、流してくれ、と頼むともっと多く入れてくれた」という庄司さんの話からわかるように、染物屋と堰守との緻密な連携もあったようだ。灌漑用水として流れる堀が、取水されてすぐの町で、まず工業用水として使われていたのが何とも興味深い。

青山染工場のようす

南染師町では最大の千し場を持っていた青山染工場。堀に向かって2つの作業場があった。「仙台アルバム」(大正四年刊)より。

魚いましたか、とたずねると「ドウを仕掛けておくとね、ナマズ、ドジョウ、ウナギ…いっぱい捕れたの」「メダカ?当然いるわよ」「ホタルだって、もうたくさん飛んでたの」と矢継ぎ早に答えが返ってきた。まるで、田園の小川のような流れが目に浮かんでくる。三面が土だった堀は、豊かに生きものを育んだのだ。

「それでね、月に一度くらいかなあ、プーンと臭ってくるのよ」と庄司さん。肥桶を馬車にのせ、農家が畑の肥料にまく人糞を集めにくるのだ。「肥上げ」とよんだ作業だ。「決まった人がきて、お茶を飲んでくの。畑の出来具合なんかを話しながらね。お礼にお米とか野菜を届けにきてた」それは、おそらく、春に堀さらいにやってくる七郷の人ではなかったろうか。上と下は、いまよりはるかに密接につながっていた。