vol.25 花壇ー川に囲まれた土地の記憶をさぐる

フリーライター/西大立目祥子

八木山から見下ろした花壇と仙台市街(撮影/小野幹) 花壇の先で急展開する広瀬川。
この時代、川はまだ豊かな緑に縁取られていた。昭和35年(1960)撮影。

■川と木々が育んだ自然環境

広瀬川の蛇行によって生まれ、藩政時代から「花壇」とよばれてきた一帯。 市街地から舌の形のように伸びるこの一帯のまわりを、ぐるりとめぐって向きを変え流れていく広瀬川のようすが手にとるようにわかる一枚だ。

舌の先の方には、昭和33年に竣工した4階建ての公団住宅が整然と並び、その向こうにはその前年に竣工した評定河原橋が架かる。市街地に目を移すと、低い家並の中に、電力ビルなど四角いビルが目立ち始めている。戦災復興から経済成長へ、整えられ伸びていく街。時代の高揚する気分が伝わってくるようだ。

しかし一方で、杜の都の名にふさわしい樹木の分厚さが印象深い。右手の経ヶ峯の崖の上、市街地の手前の横に延びる片平丁、そして花壇から上流へ連なる緑の何と豊かなこと。特に花壇は、うっそうと茂る木々の中に埋もれるようにして家々が立ち並んでいる。

それを見ていると、藩政時代、花壇は文字通り“花壇”で、藩の御花畑がつくられ、ビワ、梨、柿、栗など樹木のほか、ウドや筍まで栽培されていたようすが想像できる。何もさえぎるものなく南からさんさんと陽のあたる植物栽培の適地だったのだろう。

政宗は、この花壇の地を好んでひんぱんに訪れた。城から花壇まで架けられた花壇橋を渡り屋敷に宿泊して、川で鮭を獲り、白鳥料理に舌鼓を打ち、連歌の会を催している。三方を川に囲まれ、対岸に青葉山の崖と経ヶ峯の崖を望む花壇はダイナミックな自然を我が物にできるところだったのだろう。

時代は下がって、子どもたちも負けず劣らず、この川と崖の織りなす自然を享受し時間を忘れて遊んでいたようだ。経ヶ峯の崖の上から川に向かってターザンのように駆け下りてくるのが楽しかったよ、という話を年配の人によく聞かされる。花壇大手町町内会長を務める今野均さんは、「対岸の河原から経ヶ峯のどこまで石を高く投げられるか、やったねえ」と笑う。

花壇から対岸を見る

追廻側は想像以上に近い。崩落した崖の工事中。

公団の近くにある高橋慶子さんの家では、かつて果樹園を営んでいたという。「戦後は土地を手離したらしいけど、私が昭和33年に嫁いできたときは、まだ残された柿や梨、スモモやイチジクなんかが何本かずつあってね」というから写真の樹木には果樹も混じっていたのだろう。ご主人は大の釣り好きで、食べきれないほどの鮎を釣ってくることがあった。「七輪で焼くとおいしくて、親戚にまでまわすほどだったの」。

目の前の風景を楽しみ、自然の恵みを味わう生活は、この写真の時代になってもまだ消えることなく続いていた。

花壇の西側から大橋を望む

広瀬川の魅力を実感できるビューポイントだ。