■断絶する上流と下流

分水堰

愛宕堰から取り入れられた水は、まず六郷堀と分かれる。右が六郷堀に分水。

七郷堀は、六郷堀と分水したあと、文化町で鞍配掘と分かれ、さらに若林区役所の南で高砂堀と仙台堀に分かれ、広大な水田を潤していく。広瀬川という太い血管が東へ進むにつれて枝分かれし、毛細血管のように体内のすみずみに酸素を運ぶようだ。かつて、水は集落のまわりをめぐり、さらに敷地をぐるりと取り囲んでイグネを育み、洗い物の水となり、子どもたちの遊び場になった。

この震災のあと、沿岸部の人々を訪ねる機会があったが、七郷堀での遊びの記憶を持つ人はまだまだいらっしゃるようだ。「水草が生えているから、泳ぐと体にまとわりついておもしろいの。草の陰にフナだのドジョウだのいっぱいいたんだよねえ」となつかしんでいたのは、笹屋敷の菊池多恵子さんだ。堀のつくり出す、水辺の豊かな風景が目に浮かぶ。

震災後、古文書の読み直しが活発になり、慶長16年(1611)に沿岸部を襲った大津波も東日本大震災と似たような規模だったことが明らかになってきた。それは仙台の城下町建設が始まって10年目のことだった。いま、沿岸部で懸命に農地の再生が行われているように、鍬を手に荒地を新田に変える工事が手作業で進められたのだろう。その開発と歩調をあわせるように、堀も少しずつ伸びていった。水田の拡張が堀の延伸なしにはありえないことにあらためて気づかされる。

けれどもそれは、水田が消えれば堀も失われることを教える。『ふるさと七郷』は、もともと荒井区画整理事業で変わってしまう風景と暮らしを記録しようと始まったのだったが、当時、荒井の集落の中を流れていた6本の堀は、事業の進展の中ですべて消失した。

「水土里みどりネットひがし」と名前を変えた仙台東土地改良区の事務長、菅野司さんが教えてくれた。いま、荒井ではさらに広域の区画整理事業が進む。また、被災した沿岸部で進められている農地再生の工事では、堀は開渠した土水路ではなくパイプラインになるという。担い手が高齢化する中、効率化、集約化を図る農業のあり方は理解できても、もうメダカも棲息できない農地という現実に、どこか割り切れない思いも感じるのも確かだ。

菅野さんが最も案じているのは、農地と住宅地、いいかえれば旧住民と新住民の間に広がる距離感だ。目の前の草が邪魔、と刈って堀に流せば、それは下流の堀で詰まり、田んぼの冠水の要因になる。事務所にはひんぱんに農家から連絡があり、その対応に追われるという。下流を想像できない上流民が増えているのだ。かつて上と下で行き来したようなかかわりが消えたいま、両者が学び合うような場が、必要になっているのだと思う。

若林区では、平成18年度から「六・七郷堀サポーターズ」という市民が堀の魅力を発掘し伝えるという活動を始めているが、こういう場を広げ、もう少し堀とその先に広がる農地に想像をめぐらす市民を育てられないものか。

「都市部の下流に農地があるのは、本当にまれなことなんですよ」と指摘する菅野さん。

それは広瀬川の中流域で発達してきた仙台ならではの地勢的価値といえるかもしれない。堀沿いに思いをつないで、都市の中に農地があり続けることをよろこびあえるような街がつくれないのだろうか。都市の中に豊かな緑地を抱え持つ、杜の都の新たな姿として。