■新坂を下り川で泳いだ思い出

川はここで大きく蛇行する。西から勢いを増して流れてきた水は、東から南へ崖にぶつかるようにして流れの向きを変えていくから、元禄時代、流された橋が架け替えられなかったのもわかる気がする。橋を渡るために急峻な崖を上り下りするのも難儀だったのだろう、元禄8年(1695)年には澱橋の工事が始まり、このとき崖を切り崩して城下町北部から橋に通じる新坂が開かれた

翌年完成した澱橋も幾度も流されたが、それでもそのたびに架け替えられたのは、新坂を通りこの橋を渡るのが川内への近道で利便だったからだ。

新坂

下りていく自転車、登ってくる車。右手は宮城県知事公館(旧第二師団長屋敷跡)、左手は現日本銀行寮。

「仙台七坂」の一つに数えられてきたこの坂は上り始めるとすぐ息が切れるほど急だが、いまも通る人や車は多く、変わらない近道であり続けている。上りながら右手の家々の間に川をのぞき見る風景は昔のまま。坂の上から、あるいは坂の下から、先に行く人の背中を見て歩く坂には、時間を可視化できるようなおもしろさがあって、平坦な道にはない物語があるように思う。

戦前の小学生時代、木町通に暮らしていたという高橋久二子さんは、広瀬川で泳ぐのによく新坂を駆け下りた。「澱橋のちょっと上流は澱運動場になっていて、小学校の運動会とか市の大会が開かれたし、賢淵まで泳ぎにいくこともあったのよ。でも3年生のときかしらね、賢淵で溺れかかったの。体の上と足の方では水の流れが全然違って、オバケに足を引っ張られたぁ、とあわてるうちに沈みこんで……」幸い助けられて無事だったが、もう川で泳ぐのは許してもらえなくなった。毎年1人、2人の小学生が亡くなったもんだよ、と戦前の仙台を知る人に聞かされる賢淵。この深い淵で泳ぎたくて新坂を下り、同じように恐ろしい思いをした無数の小学生たちがいることだろう。

高橋さんは、戦後に度重なった台風のときに、坂の上から家々が水没したのを見たのも忘れられないと話す。ときに牙をむく川の恐ろしさがまだまだ実感されていた時代だった。

庭の向こう川

新坂を上がる右手、住宅の庭の向こうにのぞきみえる広瀬川の流れ。