vol.24 藤塚ー大津波に押し流された中から踏み出す一歩

フリーライター/西大立目祥子

6月30日、名取川河口の土手の上から藤塚の集落跡を見る。がれきの撤去が進み、集落はからっぽになった。手前に車が転がり、津波の傷跡が生々しい。

■津波にのまれた渡し舟、最後の船頭さん

3月15日。4日ぶりに点いたテレビで、大津波が仙台市東部の田畑を飲み込む恐ろしい映像を目の当たりにしたとき、真っ先に思い浮かんだのは若林区藤塚の渡辺理一朗さんと奥さんのもよ子さんのことだった。

「広瀬川の記憶」の第9回で、名取川をはさんだ対岸、閖上との渡し船のことを話してくださったあのご夫婦である。ひんぱんに舟で川を渡り、閖上の町で野菜を売り歩いた暮らしを淡々と、でも楽し気に語る姿には、長年暮らし続けた藤塚への深い愛着がにじみ出ていて忘れがたかった。

道をふさぐがれき

3月27日。東部道路の下から西を望む。田んぼの中の道に流されてきたがれきが重なる。

あの大津波から、お二人とも無事逃げおおせただろうか。不安が募り、3月末、私は藤塚の人たちが避難しているというJA六郷支所を訪ねた。津波は東部道路の橋脚を抜け、西側にまで海岸のマツやひきちぎったアスファルトを押し流していた。遠くに見える太白山や仙台の街並みは変わることなく穏やかなのに、間近な風景は何とひどく荒らされてしまったのか。

避難所入り口に張られた手書きの名簿にお二人の名前を見つけたときは、ほっと胸をなで下ろした。理一朗さんは、残ったのは軽トラワゴン1台だよ、とため息をつきながらも、落ち着いた口ぶりで避難のようすを話してくださった。

「消防団が避難しろ、と回ってきたんで、かあちゃんと車で避難所の東六郷小に向かったんです。でも、降ろしたところで黒い波が迫ってきてね。私は車でさらに逃げたんですよ。校庭に停まっていた100台くらいの車は一瞬でみんな流されたね。藤塚では26人の方が亡くなりました。そうそう、閖上の渡し船の船頭だった相沢さんも亡くなったよ」

 “渡し場のまさにゃあ”こと相沢正吉さんは、5年前に取材にうかがったとき、家業だった渡し船のことを生き生きと語り、閖上をはじめ、藤塚、種次、井土、二木の人たちが寄付を集めて新造した舟の名簿まで見せてくれた。ご高齢だったから、避難は困難だったのかもしれない。

6月。私は渡辺さんといっしょに藤塚に入る機会を得た。家々の間に畑の点在したのどかな集落は丸ごと流され、90世帯が暮らした痕跡は住宅の基礎だけだった。渡辺さんの畑は分厚い砂におおわれ、夏至の太陽の下では、まるで砂浜にいるような錯覚すら覚える。豪奢な社殿と広々とした境内を誇っていた五柱神社は、社殿も樹木も石碑も流され、背景は広くなった空だけになった。

すべてを流された自宅跡で

まるで砂浜のようになった自宅跡の畑で、変わり果てた藤塚を眺める渡辺理一朗さん。

「こんなふうに空っぽになってしまって。みんな頭ではわかっているけど、心はどうなんだろう。のぞけないからな」と、渡辺さんは、藤塚の人たちの喪失感を代弁するように口にした。

対岸の閖上では、連なっていた家並が消え、がれきを積み上げた山が出現していた。目の前も川の向こうも。これだけの規模で見慣れた風景が消えてしまうことは、日常の感覚を失うことにつながるだろう。

「あの石はどうなったか、流されたかなあ」と渡辺さんは、閖上、藤塚間の渡しが廃止されたとき川岸に立てた記念碑のことをしきりに気にしていた。川岸に置かれるように建立された小さな石は、黒い波にきりきりともまれながら川床を転がってしまったのだろうか。渡し船の記憶が、またひとつ遠くなる。

閖上を望む

藤塚から対岸の閖上を望む。水が入り込み地盤沈下しているのがわかる。