vol.23 川内の自然と歴史を、未来の仙台市民へ

フリーライター/西大立目祥子

蛇行する広瀬川の向こうに東北大学川内キャンパスを遠望する

昭和32年(1957)、川内の米軍キャンプ跡地に東北大学教養部の一部が移転。川内は文教地区としての性格を強めていった。撮影は昭和40年前後と思われる。撮影/小野幹

■軍隊から大学へ、受け継がれた川内

進駐軍の検問所があった県美術館角の交差点

市民がキャンプ入り口の検問所を通過するにはパスが必要だったという。

夏の川内は、勢いづく緑に飲み込まれそうに見える。大橋から上流を眺めると、広瀬川の両岸の樹木は流れに覆いかぶさんばかり。川沿いに加え、東北大学キャンパス、そして青葉山にも木々が大きく育ち、スケール感あふれる見事な景観が広がっている。

大橋を中心にした広瀬川流域一帯を、仙台のセントラルパークに─そう提唱しているのは、東北大学教授を務め、いまは都市デザイナーとして活躍する大村虔一さんだ。ニューヨークのセントラルパークのように、この一帯を、訪れる人々が歴史を感じつつ川を眺め、緑の中でゆったりと憩う公園に、と構想している。三方を川に囲まれた川内の潜在力に着眼した壮大なプランだ。

昭和40年前後と思われる小野幹さんの写真には、量感あふれる緑はまだ見えていない。中央のグラウンドは仙台二高で、ここから山へ向かう道の右側が、いま宮城県美術館のあるところだ。その左上に広がる東北大学キャンパスには低層の建物が続き、山に樹木は薄く、広瀬川の蛇行を伴う川内の独特の地形が手にとるようにわかる。いわば、原型に近い素顔の川内を掌握できるような一葉である。

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川内の潜在力の一つに、その特異な歴史があげられるかもしれない。藩政時代、仙台城本丸や二の丸、三の丸が置かれた一帯は、明治になると第二師団の軍用地となり、太平洋戦争が終結した昭和20年(1945)9月には、アメリカ軍が進駐して「キャンプセンダイ」となった。そして昭和32年(1957)には、跡地に東北大学の一部が移転し進駐軍の建物を転用し講義が始まった。つまり、市内中心部にありながら、一部の住宅地を除いて民間の開発が及ばなかった地域なのだ。青葉山をはじめ、広瀬川の流れ、五色沼や長沼など、自然景観が残されているのも、それ故のことだろう。

キャンプからキャンパスへ、写真はその移り変わりも写し取っている。「進駐軍がいた頃はね、いま美術館のある交差点と追廻のところに検問所のゲートがあって、パスを見せないと通れなかったんですよ」と話すのは、亀岡町で町内会長を務める後藤幸夫さんだ。写真には、亀岡へと延びる道の入り口に、白っぽくこのゲートが見える。後藤さんは昭和14年生まれ。小1のときに、目と鼻の先に進駐軍がやってきた。「米軍は師団の武器やらいろんなものを、広瀬川の松淵に投げ捨てたんです。昭和25年頃は朝鮮戦争の鉄くずブームでねえ、それを拾って古物商に売ってこづかい稼いだりしましたよ(笑)」。松淵は、後藤さんが子ども時代から川泳ぎで親しんだ場所である。

大橋をわたり川内へ

豊かな緑が一帶を包み、訪れる人を市街地とは違った時間にいざなう。