■草地と水が牛たちを育んだ

戦後間もない昭和22年(1947)の『仙台商工名鑑』には、搾乳して牛乳を販売していた牧場が26も掲載されている。敗戦後、仙台には連合軍が進駐し、市民生活も変化して、牛乳を飲む人が増えたのだろうか。

さかのぼること32年、大正4年発行の『仙臺アルバム』に紹介されている牧場は、花壇の「早川搾乳所」と北六番丁の「東皐舎」の2カ所のみ。大規模な牧場だったのだろう。「殺菌消毒全乳」と記載された脇には「バター ヨーグルド・」と記されている。「早川搾乳所」は、仙台市長を務めた早川智寛が花壇に創業した牧場で、市民の間には「早川牧場」の名で知られていた。

明治以降、欧米の文化は学校と軍隊から入った、とはよく言われることだ。「学都」「軍都」と称された仙台には、新しい食文化を受け入れる素地がいち早くつくられていったと想像できる。わずかながら洋食屋も開店し、新しい食品の需要も生まれていたのだろう。

「うちは大正2年に親父が、塚田さんという方がやっていた牧場を引き継いで始めたんです。塚田牧場は、日露戦争のとき、負傷兵のいる病院に牛乳を卸していたそうですよ」とは、中島丁で昭和30年代中頃まで牧場を経営していた工藤哲夫さんの話だ。以前、この稿(広瀬川の記憶第12回)でご紹介したこともある「愛光舎工藤牧場」の2代目だった方である。

中島丁にあった愛光舎工藤牧場

昭和10年代後半と思われる。左手の子供を抱く男性が初代の工藤友蔵氏。写真提供/工藤哲夫氏

お話をうかがうと、昭和20~30年代にかけては、花壇に早川牧場が立地し、その上と下を分け合うように、今野牧場と愛光舎工藤牧場が河原で牛の放牧を行っていたことがわかってきた。

「土地は1100坪ありましたが、牧場をやるには狭い。だから5月から、霜降る頃…11月20日頃まで河原に放牧しましたよ。つぎの草が生えてくるのが待ち遠しくてねえ。放したのは牛越橋から澱橋の下、いまの赤門自動車学校のあたりまで。牛はクローバーが好きなんです。特に夜露に当たった草がね」と工藤さん。4、5人がかりで4、50頭ほどを動かし、やはり、川は泳いで渡らせた。

工藤さんの記憶では、牛一頭を飼うのに必要な草地は3反歩(約900坪)と試算した研究があったという。まさに河原なければ牧場は維持できなかったのだ。もうひとつ、牧場を支えていたのは、敷地内にこんこんと湧き出る水だった。ひょうたん型にこしらえた池に水を貯め、牛乳を入れた一斗缶をぶら下げて冷やしたり、たっぷりと牛に飲ませることに使った。「牛はうんと水を飲むんです。井戸や湧き水がなければ牧場はとてもやれないですよ」。

草と水と。広瀬川河畔はその2つの条件を備えた格好の牧場だったのだ。いまは眺め親しむ広瀬川が、仙台市民の食を支える第一次産業の生産の現場だったことに、あらためて感じ入った。