■まちに根づいていた循環型の暮らし

牛が身近に暮らしていた記憶は、いまもまちの人たちの脳裏にしまいこまれているようだ。

「いやあ、おっぱいの大きな牛がぞろぞろ道路を行くんだもの、びっくりしたねえ、ハッハッハ」と、米ヶ袋の「南條酒店」のご主人が笑う。「夏場に河原に草が茂ると思い出すね」と話し始めたのは、同じく米ヶ袋の青果店「かなざわ」の奥さんだ。店では毎日、野菜くずを今野牧場に運び、木箱に入った牛乳を24本仕入れたものだという。ご主人が脇から、「帰り道、牛がうちの店先に寄っていくもんだったよ。表に野菜積んでおいたからね。腹いっぱいになると、ドンと置き土産。それから"ウン"がついた、てなもんで。ハッハッハ」と話し、こちらも笑顔になった。

牛を放牧した澱橋下の河原

牛たちを対岸から泳いで渡し、放牧したという。

今野さんは「臭いとか、匂うとか、言われたことはなかったよ、まわりはみんなうちの牛乳飲んでいたからね」と話す。目の前の牧場でつくられた搾りたての牛乳を飲む─今日いう"地産地消"があたりまえだったころは、みんな大らかで"お互い様"と思いながら暮らしていたのだろう。「あのころは、何だかよかったねえ、うちの店だってもっとにぎわっていたし」と「かなざわ」の奥さんが、しみじみした口調になった。

広瀬川沿いでは最後の牧場となった「今野牧場」が閉じたのは、昭和49年。皮肉にも「広瀬川の清流を守る条例」が施行されたからだった。都市化が進み、人口が増え環境汚染等の問題が取り沙汰されるようになっていく中で、汚水や牛糞で川を汚すことは、もはや許されない時代がきていた。この写真が撮影されたころ、今野さんは増え始めたビルを眺めながら、もうまち中で牛は飼えない、と自問自答する毎日ではなかったろうか。

いまこの場所に下り立ってみると、マンションとアンテナはそのままだが、まわりのビルの高さは上がり、河原にはヨシやヤナギが霊屋橋を隠すほど生い茂っている。教えていただいた牛の好物の草を探しながら、この河原の草を牛が食べ、その牛が出す乳をまちの人が飲むという小さな循環型の生活は、もう望むべくもないのだろうか、と考えた。すべてが失われたあとでは、そんな生活を、もう一度このまちで味わいたい、と思えてくる。

それがもうかなわないなら、せめて一度、飲んでみたかったなあと思う。工藤さんが「ビンに詰め、殺菌してすぐ、まだ持てないほど熱いうち届けたんですよ」と話す広瀬川が育んだ牛乳を。

草の生い茂る米ヶ袋の河原

牛が放牧されていた河原に立つ。背丈ほどもあるヨシが目立ち、御霊屋橋はわずかしか見えない。