■江戸時代、林家が始めた「宮沢渡し」

宮沢橋の歴史は、江戸時代の渡しに始まった。明和9年(1772)の文献に、名取郡根岸村宮沢に渡しがあったことが記されている。当時は、阿武隈川から閖上を経由して広瀬川をさか上り、堰場に荷を下ろすための水路が物資輸送の大きな役割を担っていたから、対岸の根岸との往来も多かったのだろう。

その後、渡しは途絶えるが、幕末になって根岸の林藤助なる人物が、渡しを復活させている。「グラフせんだいNo.34」(仙台市広報課発行 1985年6月)には、藤助の子孫の林亥太郎さんがこんな話を寄せている。

「うちの先祖に林藤助というのがいて、最上藩の隠密だった。それが江戸時代の終わりに仙台藩に逃げてきて、宗禅寺の和尚さんから船をもらって始めたのがこの宮沢の渡しなんだ。明治の初めには県の参事(現・知事職)に許可をもらって渡してたんだけど、渡し賃は三文で、渡る人はおばあさんにお金を渡してた。(中略)渡しは明治15年には木の橋になってしまってね。私の祖父の八五郎が越路官林(現・八木山)から木をもらってきて十三尺の長さの板を作って、川にくいをさして、その上に二枚ずつ置いていったんだ。渡るときは一銭ずつもらってたけど、おばあさんがいない時はそのまま渡っていく人もいたね」

宗禅寺とは、太白区根岸にある古寺である。この林家の管理した橋は、現在の宮沢橋の下流につくられ、「一銭橋」の名で、明治、大正、昭和と受け継がれていった。そしてその名は、当時を知る人の記憶にいまも鮮明に残っている。雨が降れば流される、渡っては怖い。だからこそ粗末な橋の思い出は深いのかもしれない。

一銭橋への道

高校生が歩いているこの道をおりていくと一銭橋に出た。左手の川岸に「船場」と呼ばれた林家があった。

「川エビがいっぱいいたからねえ、夜明けとともに出かけて、片手で橋にぶら下がって小っちゃいタモですくったもんだったよ」と話すのは、若林区南材木町で燃料店を営む牛坂清一さん(昭和7年生まれ)だ。

同世代で、河原町の海産物屋に生まれた海野彦六郎さんも「一銭橋あたりが遊び場でした。いたずら坊主5、6人で渡っては、畑のイチゴやキュウリをもいで食べたし、暑いときは泳いだし」となつかしそうに話す。林家はイチゴ園もやっていたらしい。町場の子どもたちにとって、一銭橋で渡る対岸の大年寺山は思う存分遊べる自然の宝庫だった。

そしてもちろん、一銭橋が、根岸から西多賀へと通じる山根の人々の暮らしと河原町、南材木町、南染師町という町場の暮らしをつなぐ重要な交通路だったことはいうまでもない。南染師町で染め師として働く人、河原町にあった青物市場に野菜を卸す人、買い物の人…明治の初めから戦後まで、大勢の人が、このかぼそい橋を渡ったはずだ。

雨のたびに流されても、橋は生活に欠かせないかぼそい橋は、生活に欠かせない大切な道だった。一銭橋は、昭和13年に林家から仙台市に寄付されている。