■川岸に残る空襲と洪水の記憶

対岸に写る下町段丘は、川内川前丁、川内大工町である。井場さんは川内川前丁で子ども時代の一時期を過ごした。遊び場は川。話からは、この辺りの戦前のようすが目に浮かんでくる。「こんなに家はなかったですよ」と井場さんが指さすのは写真の赤門自動車学校の内側の部分だ。

「ほとんどが杉林と雑木林。秋には栗の実、焚きつけ用の杉の葉を拾いに行きました。川では泳いだり、魚釣ったり。洪水の後は大きなウグイが釣れたし、カジカガエルは捕まえてかめに入れ、一晩、鳴き声を楽しんだあと、朝に放してやったものです。僕らは“テイコ”と呼んでいたけれど、川岸には旧陸軍第二師団の船を入れておく倉庫があって、ボート訓練をやっていましたね」

瀬音が間近に聞こえる暮らしには洪水がついてまわった。そして川内一帯は軍の施設があっただけに、昭和20年7月10日の仙台空襲では標的となった。いまも、年配の方たちの口からもれるのは洪水と戦争の記憶だ。

高橋さんが60年間、手元残してきた焼夷弾。戦争を現実的に語りかけてくるようだ。

「この辺りで空襲の犠牲になったのは5人。親子2人が窒息死、残りは直撃、だってこれが当たったんじゃ」と、実際に投下された焼夷弾を奥から出してきて話してくださったのは、戦前から八百屋を営んできた高橋林一さんだ。裏庭に落ちたのをひろったという焼夷弾はまん中から折れているが、長さは60センチほどあったという。鋼鉄でずっしりと重たく、直撃の恐ろしさを生々しく伝えてくれる。火は南から燃え広がり、高橋さんの家を飲み込んで三軒北の豆腐屋で止まった。写真に写るのは、このとき戦災をまぬがれた家々だろうか。

やがて、高橋さんは生業を再開すべく、いまの店を建てた。焼け残った桁を用い、間口5間を3間半に小さくして。それは昭和25年、対岸に公会堂ができたのと同じ年だった。

当時の新聞を見ると、昭和25年という年が見えてくる。樺太からの引き揚げ者が帰仙する一方で、新仙台駅が完成し、戦争の後始末と新しい時代の建設が同時に進行しているのだ。そして、その最中、川べりに暮らす人を襲ったのが度重なる水害だった。

昭和25年に建てた店を見上げる高橋林一さん。同年8月、この先の四つ角まで水が上がった。

「いちばんひどかったのは昭和25年の8月。道路まで水が上がったから」と高橋さん。その甚大な被害を、川内川前丁の千葉能子さんは、自宅の移転というかたちで経験した。「川にせり出した洲の上に家があったんです。危ないので、6、7軒並んでいた家といっしょに洲から上がれ、ということになって川前丁の北側に引き家したんですよ。あのときは、家も牛も流れてくる。それがみな仲の瀬橋にぶつかって、まあ恐ろしいことでした」。千葉さんが移転したのは、ちょうど井場さんが木が繁っていたと話す辺りだ。

それぞれが目の前の生活で精一杯だった。お二人に尋ねても、ちょうど同じ年に進んでいた公会堂の工事のことはおぼろげだ。やがて護岸工事がなされ、生活が落ち着き、戦後の街並みが整っていくと、公会堂は名実ともに市民の文化活動の拠点となるのである。