■すぐそばの淵や瀬で遊んだ

加藤家のアルバム

なつかしい写真の下には、貞子さんの字で「水ぬるむ」「昭和32年7月5日」とあった。

「写真館」には、大橋を背景に追廻住宅の川辺で水に浸る子どもたちの1枚もある。昭和32年の風景だ。寄せてくださった加藤貞子さんは太白区にお住まいで、訪ねると古ぼけたアルバムを開きながら、なつかしそうに当時のことを話してくださった。

「奥で子どもを見ているのが主人、いちばん小さな子が長男なんです。ちょうど3つになった頃ね」。この写真は知人だった地元紙の河北新報のカメラマンが撮り、昭和32年7月5日号に「水ぬるむ」という題で掲載されたものという。それだけに家族にとっては忘れがたい1枚になった。

「川はすぐ近くですからね、この子も下の娘もよく遊びましたよ。黙って出ていっても、危ないという感覚もなかったのねぇ。すべらないように気をつけて、というぐらい(笑)」

そう話す貞子さん自身、子ども時代は広瀬川で泳いだ。「私は家は二日町(現青葉区二日町)、学校は木町通小学校でね、クラス全員で賢淵(かしこぶち)に泳ぎにいきましたよ。帰ってくると、教室の後ろに机を下げて、みんなで昼寝(笑)」。

賢淵の現在

大倉ダムができてから、淵の水量もずいぶん少なくなった。でも、夏には泳ぎに興じる若者の姿がある。

加藤さんの話からは、仙台の市街地が中心部にまとまり、そこを蛇行しながらぬって流れる広瀬川が、子どもたちにとっては庭先や校庭の延長のような存在であったことが見えてくる。家がどこにあるかで、なじみの淵や瀬が決まったに違いない。それは、菊地さんが少年時代を過ごした昭和30年代まで続いたのだろう。暮らしと川は実に緊密な関係を保っていたのだ。コンパクトシティなどということばが生まれるはるか以前に。

昭和30年代後半から、郊外の丘陵地をつぶしながら団地開発が進むにつれて、暮らしは広瀬川から遠くなり、子どもたちと川とのかかわりも薄れたのではないだろうか。広瀬川以外にも身近にあったはずの七北田川や名取川との接点を持つこともなく。