vol.9 閖上と藤塚を結んだ河口近くの渡し舟

フリーライター/西大立目祥子

藤塚から閖上に向かう渡し舟。一般の川舟よりも大きく、長さは24尺あったという。荷物を背負ったまま座れるように、縁も幅広くつくられた。昭和45年8月。(撮影/小野幹)

■重い背負いかごを背中に、毎日舟で対岸へ

沈みそうなほどの人と荷物を積んで、舟が岸を離れようとしている。3人の男たちが舳先をうんうんと押し、前かがみになって乗り組む女たちの背負い(しょい)かごからはネギがはみ出している。よく見れば、舟にどっさりと積まれているのも野菜のようだ。

撮影者、小野幹さんには「名取川河口、藤塚と閖上(ゆりあげ)の渡し舟」と教えていただいた。写真の裏には「昭和45年8月」とメモがある。昭和45年といえば、大阪万博の年だ。みんなが経済成長をひた走っていた時代に、こうやって舟で野菜を運ぶ生活が仙台にあったことに驚いた。川はまだまだ生活のための道でもあったのだ。

若林区藤塚在住の渡辺理一朗さんに写真を見ていただくと、渡し舟とわかったとたん「いやぁ、なつかしいなぁ」と顔をほころばせ、「向こうが閖上の町並み、手前が藤塚。この中にうちのかあちゃんもいるかもしれないよ」とおっしゃる。写真を持ち帰ってゆっくり眺めてもらうことにした。

渡し船1 後日、ご自宅にうかがうと、女性が2人にこにこと待ちかまえていた。「白い割烹着で立っているのが私」と自己紹介してくださったのは、ズバリ、渡辺さんの奥さんのもよ子さん、「座って顔が見えてるのが私」と話すのは、東海林良子さん。写真から36年が経ったいまも、お元気で藤塚にお住まいだった。「この頃はまだ30歳過ぎたばっかり、若けぇときは力出たんだわぁ」と、早速、話が盛り上がる。

「背負いかごに畑から採った野菜入れて、その上にまた箱と風呂敷を重ねんだもの、40~50キロになったんでないかなぁ。毎日、朝6時頃舟に乗ったの。閖上に着くと、八百屋さんとか肉屋さんとか、お得意さんに野菜卸して、余れば一軒一軒回って売ってくる。向こうは漁師町で畑つくってる人は少ないからね。朝ご飯食べないで出かけるから、10時前には帰りの舟に乗ったの。藤塚だけでなく、中野からも種次からも行ったよ。あの頃の閖上はにぎわってたから」。もよ子さんの話からは、六郷の川沿いに暮らす農家の女性たちが、町場の閖上へと、川の上を盛んに行き来したようすが見えてくる。 

渡辺もよ子さん(右)と東海林良子さん(左)

「野菜売って子供たち学校に出したんだからねえ」と渡辺さん。「今の人たちは本当に楽なもんだ」と東海林さん。

「舟賃はお金でなく、1年分をまとめて米で船頭さんに渡したんだ。1軒で5升ずつぐらい出したんだったかなぁ」と理一朗さん。

「昔は、片瀬片舟といって権利は川のまん中まで。だから藤塚側にも船頭さんがいたらしいけど、俺が物心つくころには閖上の船だけだった。最後の船頭さんは、たしか相沢マサ…オさんだったか」。それが写真の舟の後尾の帽子の人だろうか。会って話を聞きたいと思った。