■架橋とともに消えた渡し舟

渡し舟がなくなると、藤塚の多くの女性たちは野菜売りをやめた。「みんなやめたねぇ。新しい橋を渡って車で行く人も中にはいたけどね。その頃には生活が豊かになっていたのかな」と、もよ子さんは話す。でも、もし渡し舟があったら、野菜売りは続いたのではないだろうか。

「閖上に行くと、売った先でお茶飲みして、帰りにお菓子買って、現金が入るからお姑さんに内緒で貯めて服買ってね」。もよ子さんの話ぶりからは、野菜売りはつらくも楽しさをともなう仕事だったことが伝わってくるからだ。

藤塚の川岸に立ってみると、閖上は手が届きそうなほど近く、川面は平らで静かだ。この上をすべるように舟が進んで行くのにくらべると、陸路は一歩踏み出すたび野菜の重さが肩に食い込みそうに感じられたのかもしれない。

いま、舟着き場の跡には、「藤塚渡しの地」と刻まれた石が立てられている。渡辺理一朗さんをはじめ地域の方たちが、土地の記憶を伝えようと国土交通省に働きかけてつくったものだ。

藤塚の渡し場跡に建てられた記念碑

広く静かな川面の向こうに閖上の町が見える。

理一朗さんの渡し舟の思い出は深い。「閖上にサーカス見に行った帰り、乗り過ぎて岸離れたとたん舟がずぶずぶ沈んだことあったっけなぁ。袋原にあった家畜市場から牛買ってくるときも渡し舟だった。舟は何でも運んだんだよ。牛も鳥も野菜も、花嫁さんも。藤塚の花嫁さんは、着付けは閖上でしてもらっていたからね」。

妻のもよ子さんも、その一人だ。理一朗さんの耳底には、川岸のにぎわいと活気と“ほーっ、ほーっ”というよび声がいまも響いているのかもしれない。

川辺で思い出話をしてくれる渡辺理一朗さん

右手奥に見える「一本松」は藤塚のシンボルだったが、10年ほど前に松食い虫にやられて枯れてしまった。

車や鉄道といった陸路ばかりに親しんでいると、川はこちら側と向こう岸を隔てる、と思いがちだ。でも、それはきっと逆だ。川は対岸同士を結び、物を運び、人々のつながりを深め、ときにドラマさえ生む。閖上大橋の架橋から34年、川を舞台に繰り広げられた生活模様はすっかり消えて、藤塚の川辺はしんと静まりかえるばかりである。

図 渡し場の位置