■失われた緑と水の風景

だれか昔語りをしてくださる方はいないものか。そう思いながら床屋さんで声をかけたら、升井さんという方が快く応じてくださった。「鳥居くぐったところにある上川内の町内会館、あれは昔の神楽殿が焼け残ったものなんだよ。亀岡公園の下を境内から流れてきた沢がくぐってる。暗渠にしたんだね。山側はもとは家はなかったんだがねぇ。戦後引き上げの人たちが住み始めて、それから家が増えていったんだ」。

亀岡町から川内三十人町を歩いて、川と街並の望めるポイントを探した。まず、急斜面にはりつくような住宅地と生活道路の勾配のきつさに驚く。まん中に階段がつけられた道も多い。だが、すっぽりと宅地におおわれたかに見えて、沢はまだ生きていた。住宅地の間の三面コンクリート貼りの堀を、水がすべり落ちてくる。上がまだ山だから、こうして新しい水が広瀬川に流れこむのだ。

堀を流れてくる沢水

江戸時代の絵図に描かれた沢は、姿を変えながらもまだ生きていた。住宅の間を通って春先の藍色の川にそそぐ。

対岸を広く望める空き地に立って、唖然とした。いったいいつの間にこんなにビルが増えたのだろう。丘陵地の緑ははぎ取られ、大崎八幡宮の森も小さくなったように見える。広瀬川の存在もどこか弱々しく感じる。広瀬川が大きく蛇行しながら都心へと流れ込むこのあたりは、水と緑が一帯となって、いかにも仙台らしい景観を織りなしていたはずだ。都市化とは、とりもなおさず緑を、ひいては水を失うことなのだと思った。

川向こうに連なる住宅街

大崎八幡宮の鎮守の森が茂り、その右側はどこまでも住宅とマンション。暮らすひとの受け皿となって失われたのが緑だった。

帰り道、佐藤商店という小さな食料品店で創業年をたずねてみた。「昭和29年」。戻ってから、試しにと思い、大崎八幡宮の奥にある国見小学校と国見台病院に電話をして開校年と開業年をきいた。どちらも「昭和29年」。そして牛越橋も同年。昭和20年代で私たちは旧城下町域を宅地化しつくし、昭和30年代からは、その外側の丘陵地の開発に手をつけていった。

かつて、近景に広瀬川を、中景に榴岡や宮城野を、遠景に塩釜や金華山を眺めた三千風や芭蕉。彼らがいまここに立ったら、何をもって風流を詠むだろう。