vol.8 亀岡八幡宮から仙台の街を見下ろす

フリーライター/西大立目祥子

亀岡八幡宮から見た八幡町・国見方面(撮影/小野幹)

国見の開発が進み、鉄筋コンクリートの建物も目立っている。だが一方で写真右手の中島丁にはうっそうと庭木が茂る。手前は川内三十人町。撮影年は不明。

■松尾芭蕉が眺めた歌枕の都

国宝、大崎八幡宮にくらべたら、亀岡八幡宮にお参りしたことのある仙台市民は少ないかもしれない。広瀬川をはさんで、北と南にまるで向かい合うようにある八幡様なのに。

今回、写真家、小野幹さんが用意してくださった写真は、この亀岡八幡宮からの眺望である。撮影年は不明。だが、中央の牛越橋が新しいから、架橋の昭和29年以降であるのは確かだ。鉄筋コンクリートの建物も目立つので、さらに10年ぐらい時代は下るかもしれない。大崎八幡宮の鎮守の森がこんもりと茂り、川岸には緑があふれている。そして、遠くには七つ森が見える。

この眺めから目につく建物を引き算して、広瀬川にとうとうと水を流し、濃淡さまざまに緑をつないで遠くに青く海を光らせる…。それが、江戸時代に、松尾芭蕉が眺めた風景だったろう。元禄2年(1689)、ここに奥の細道を旅する芭蕉が訪れた。亀岡八幡宮には、俳諧文化のメッカだった時代があるのである。

ここで、簡単に歴史をひもといてみる。亀岡八幡宮が伊達家の守護神として、福島県伊達郡に建立されたのは文治5年(1189)のこと。そして、政宗が慶長6年(1601)に仙台を開府した頃、移されたものらしい。初めは同心町(現在の青葉区錦町)の仮宮に安置された。それから80年ほど経った天和元年(1681)、亀岡山の現在の場所に、4代藩主綱村によって壮麗な権現造りの社殿が造営された。このときつくられた門前町が、いまも同地に名前をとどめる亀岡町である。江戸時代の祭礼の日には、武士たちはもちろん藩主も参詣をしたというから、崇敬を集めていたことがわかる。

さて、亀岡八幡宮が同心町から現在地に遷宮されるころ、仙台には、熱心に門下生を育てる大淀三千風(おおよどみちかぜ)なる俳人がいた。伊勢の国(三重県)の人でありながら、18年にわたり仙台に滞在した三千風は、この地に俳諧文化を根づかせた人物といっていい。亀岡八幡宮の宮司も門下の一人だったという。一方で三千風は、仙台近辺で古来から歌われてきた歌枕の場所を特定する研究も進めた。その集大成が『亀岡八幡宮遠眺二十八景』(かめおかはちまんぐうえんちょうにじゅうはちけい)である。亀岡八幡宮から眺められる名所や旧跡を28ヵ所、季節ごとに選び、句を付けて奉納したのだという。この中には、広瀬川、木下(木ノ下)、宮城野、名取川、塩釜、金花山(金華山)など、なじみ深い地名が含まれる。境内からははるか遠くに、塩釜、金華山までが望めたのだ。まさに由緒ある歌枕のここ、あそこを、眼下に収められる絶好のビューポイントだったわけである。多くの俳人たちが訪れては、ここで俳諧の座を持ったのではないだろうか。

三千風が仙台を去って2年後、仙台を訪れた松尾芭蕉は、到着の翌々日、亀岡八幡宮に参詣している。5月6日(旧暦)、晴天。見とれるばかりの眺望が広がっていたに違いない。

亀岡八幡宮の背後より

右側のこんもりした林が亀岡八幡宮。この高さゆえ、江戸時代は火災の際に出火合図の鐘も突いた。


私も、参詣することにした。宮城県美術館前の道を通り、右に折れてしばらく行くと、古いお堂が見えてくる。仙台三十三観音の一番札所の法楽院観音堂。ここから左に延びるのが、門前町の亀岡町である。酒屋、八百屋、食堂…にぎやかではないけれど、生活の匂いのする商店がいくつか並び、その先に大きな石の鳥居がある。