■花壇に牧場と動物園があったころ

昔は、もっと緑濃い自然に包まれていたろう。江戸時代、花壇には藩主の下屋敷が置かれ、政宗は歌を詠み野遊びを楽しんだ。時代は下って、いま70歳代、80歳代の人たちが、評定河原、花壇ときいて思い起こすのは、「早川牧場」と「仙台市動物園」ではないだろうか。ここに牧場と動物園があったなんていまでは想像もつかないが、それだけに下町段丘が都市仙台の「郊外」だったことが見えてくる。

「早川搾乳所と花壇下放牧場と乳牛」

『仙台アルバム』(大正4年撮影)より。早川牧場の創設者は仙台市長となった早川智寛。遠くには片平丁の家並みが写っている。(資料提供/仙台市歴史民俗資料館)。

大正15年の地図を見ると、いまの野球場や東北大のグラウンドは川の中州で、早川農場、早川牧場と記され、近くには早川牛舎、早川氏別邸の文字も見える。一帯はのどかな牧草地だったのだ。牧場は大正初期に創設され戦後まで続いたらしい。

一方、動物園は花壇の突端、いまの仙台花壇団地のあたりに、昭和11年に開園した。象、ライオン、ヒョウ、トラ、ラクダをはじめ150種にも及ぶ動物のいる、仙台では初めての動物園だった。絵本でしか知らなかった動物に仙台じゅうの子どもたちが胸躍らせたに違いない。けれども、戦争が激しくなった昭和19年、空襲に備えて猛獣類は殺処分され、動物園は20年3月に閉園という悲しい結末を迎えた。

花壇の仙台市動物園

動物園は見えにくいが、川に向かってせり出した花壇の突端に園が作られたのがわかる。昭和12,3年ごろは年間20数万人が入園したという。(資料提供/仙台市戦災復興記念館)

花壇には、当時を記憶する年配の方がまだ暮らしている。

戦後ずっと魚店を営んできた葛巻節子さんは、向かい側の大きなマンションを眺めながらこう話す。「そこが早川さんのお屋敷で、牧場が手前、本宅が後ろにあったの。牛がいっぱいいて、モウモウって鳴き声が聞こえてねぇ。瓶に牛乳詰めて売ってたよ」。興味深いことに、葛巻さんは花壇の上に位置する市内中心部を「上」と表現した。「上」にいて仙台空襲にあった、「上」からの眺めはとてもよかった、という具合に。牧場は縮小しつつも、グラウンドの西側付近に昭和30年ごろまであったものらしい。

葛巻さんの店のお客さん吉田美都子さんは、小学校6年のとき、福島から修学旅行で動物園にきたという。「おぼろげだけど、仙台駅に降りたと思うの。そして東北大学の金属材料研究所、裁判所の前を通って、動物園に行った。もちろん歩いてね」。

この写真の頃には牧場や動物園はどうなっていたのか。そう思いながら、毎日更新されるHP「きょうの広瀬川」を見ていたら、これだと膝を打つ記述を見つけた。千葉栄三さんという方のエッセイである。霊屋下で子ども時代を過ごした千葉さんは、廃虚になった動物園の猿山で遊び、配達される早川牛乳を飲んでいたらしい。お話をうかがうことにした。