■灯籠流しに込められた祈り

桃源院の叢塚

飢餓で亡くなった人を弔った跡に立てる叢塚。施餓鬼を行ってきた桃源院には、天明4年の文学が刻まれた叢塚がある

小野さんの写真を見て「花火」ではなく「川施餓鬼(かわせがき)だね」とことばを返してきた人がいる。「施餓鬼」とは、餓えに苦しみ亡くなった人々への供養のことだ。長町の花火大会は、第1回から、盆の行事である施餓鬼と同じ日に開催されていた。

この河原での施餓鬼の歴史は古く、江戸時代の宝暦、天明の飢饉にまでさかのぼる。宝暦5年(1755年)、春からの長雨で仙台藩は大凶作となり、各地から城下へ難民が押し寄せ、藩では広瀬橋下流の現在、松原地蔵尊のあるあたりに御救小屋(おすくいごや)を設けて粥をほどこした。けれども、多い日には150人が亡くなるほど悲惨を極めたという。天明3、4年(1783、1784年)の飢饉はもっとひどく、疫病も重なって、藩内で15~20万人もの人々が命を落とした。このときも御救小屋で粥が与えられたが、死者は後を絶たず、大穴を掘ってまとめて埋葬するほどだった。

流灯供養の読経

「広瀬川灯ろう流し」では2回の読経が行われる。

この間、安永3年(1774年)に7代藩主重村の夫人、観心院によって、広瀬橋にほど近い場所に桃源院という寺院が開かれ、死者を供養する施餓鬼が毎年、旧暦7月16日に執り行われるようになった。後には広瀬川に灯籠を流す「流灯供養」も加わった。広瀬橋付近に暮らす人々はこの供養を「大施餓鬼(おせがき)」とよんで親しみ、盆の入りに迎えた霊を川に送りにきた。

高田つぎさんも、昭和20年に応召され20年3月にフィリピンで戦死した夫のために流灯供養をしたことがある。「高田家先祖の霊と書いた灯籠を和尚さんに拝んでもらって……流すと、それは悲しかったね」。花火大会の始まった昭和20年代後半には、戦死した家族や空襲で亡くなった人たちの灯籠を流すたくさんの市民が河原に集ったことだろう。

盆の行事として行われた花火大会の主役は、花火ではなくこの供養の方だったのだ。亡くなった人たちをおだやかに流れる夜の川に返して、鎮(しず)まった気持ちで花火の打ち上げを迎える。ざわめきの中、泣きながら空を見上げた人もたくさんいたはずだ。