vol.5 たくさんの人たちが思いを寄せた川岸の道

フリーライター/西大立目祥子

霊屋橋・鹿落坂付近(撮影/小野幹)

昭和42年4月。小野幹さんがヘリコプターから撮影。ひと目で場所がわかるのは、霊屋橋、経ヶ峯の杉林、鹿落坂、そして何といっても広瀬川の流れが、その姿を変えることなくいまに受け継がれているからである。ただし、マンションは増えた。

■仙台のまちより歴史の古い鹿落坂

清流広瀬川の魅力は?とたずねられたら、私なら2つ上げる。まちの中心部をおもしろいほど何度も蛇行すること。そして、川岸に自然の崖があること。両方とも、市街地を流れるのが川の中流にあたることを示す魅力だ。そして、この2つをたっぷりと見せてくれるのが、米ヶ袋から鹿落坂を経て、向山に至るあたりではないかと思う。

今回、写真家小野幹さんが用意してくださった3枚の写真の中から、私は迷わずこの一帯を写した一枚を選んだ。昭和40年(1965年)4月と教えていただいた。

歩いていけばそのまま川面に近づける米ヶ袋と、切り立った崖の上から川を見下ろす格好になる向山。対照的な川の風景を結ぶのが、霊屋橋(おたまやばし)と鹿落坂(ししおちざか)である。

霊屋橋・昭和12年

70年前の景観だが、現在の姿と大きな変化はない。川周辺の環境が都市にとってどれほど大切かがわかる。橋左手のケヤキもまだある。(仙台市歴史民俗資料館蔵)

けれども、藩政時代までここに橋はなかった。人々は浅瀬を渡ったはずである。橋銭三文の粗末な板橋ができたのは明治に入ってから。明治の終わり頃、現在より100メートルほど下流に「越路橋」の名で木造橋が架けられるが3年後に流失。仮橋の期間を経て大正初めに木造の吊り橋に変わり、現在の霊屋橋ができたのは昭和10年(1935年)のことだ。仙台市歴史民俗資料館で見つけた昭和12年の写真は、竣工まもない頃の橋を写したものである。

そもそも鹿落坂を経て川を渡る道筋は、城下町仙台の誕生以前にさかのぼる。 元禄年間に書かれた地誌『仙台鹿の子』には、「鹿落坂は越路観音下の坂なり 古よりの細街道にてある故此坂口より鹿とも里へ下り出る故鹿下り坂といへるを今世俗はしヽおち坂といふなり 此処は昔の東街道にて此道の外仙台西南の山より出入りの路なし」とある

鹿落坂・昭和12年

昭和20年代にコンクリートで護岸工事がされるまで、坂の下の方は川へ降りていけた。「メダカを捕ったり、餅草を摘んだりしたね」と鹿落旅館女将さんの談。(仙台市歴史民俗資料館蔵)

昔は鹿を「しし」とよんだという。坂の名は、かつて山に多く棲んでいた鹿たちが、この坂を降りてきたことからついた。川に水を求めてきたのだろうか。そして、文中に「東街道」とあるように、都を離れ、名取、茂ヶ崎と歩いてきた人々は、坂を下り浅瀬を越えて木ノ下や宮城野へと向かったものらしい。城下町ができ奥州街道が整えられてからも、南から城下へ入る近道として使 われ続けた。

広瀬川に崩れ落ちそうに見える坂が、いかに大切な道筋であったか。いや、それゆえに、大切に丁寧に守り維持され今日に至ったに違いない。実際、11代藩主斉義(なりよし)のときには、斜面が川水に削りとられ崩落するのを防ぐため大工事を行ったという。いまも、坂には向山や八木山へと向かう車が、引きも切らずに通っている。