■戦後の仙台を襲った、度重なる台風

広瀬川のほとりを歩いて長年暮らしてきた方に話を聞くと、60歳代以上の方は必ずといっていいほど、戦後すぐの仙台を相次いで襲った台風のことを口にされる。「家が流されてきたの、屋根の上にはまだ人がいてね」「堤防越えて水がきたんだ、あっという間に」。そういう話を角五郎でも、川内でも、河原町でも、六郷でも聞いた。昭和22年9月キャサリン台風、23年8月ユーリス台風、9月アイオン台風、25年8月ヘレン台風くずれ熱帯低気圧。空襲で焼け野原となったまちの復興の最中、度重なる台風襲来がまだまだ困窮していた暮らしを打ちのめした。だからこそ被害の光景は、いつまでも頭にとどまっているのかもしれない。

宮農の校門近くで長年燃料店を営んできた佐々木繁さんに聞いてみた。「あれは昭和25年だったか、人が乗ったまま家が流されてきたことがあったね。たしか人は助けられたんじゃなかったか。このあたり一帯はみんな床下浸水で、長町の青果市場は膝くらいまで水につかったのを覚えてますよ」。

「キャサリン台風のときはひどかった。特に河原町側の被害は大きかった」と話してくださったのは、根岸で明治初めから製茶業を営んできた大竹誠一さんだ。広瀬橋近くの大竹さんの店は膝上まで水につかり、長町は北側半分近くが水浸し。当時宮沢橋上流、宗禅寺の横に架かっていた根岸橋は濁流に呑まれた。それを「あー流される」と見ていたという。この後、根岸橋は掛けられることなく現在に至っている。昭和22年9月16日の河北新報には、広瀬川流域の被害として「広瀬橋上流の根岸橋流失 飯田方面で床上浸水90戸、水稲冠水7千町歩、畑作冠水5百町歩に上る」また「愛宕橋南岸地区水浸し」とある。

現在の木流堀

宮農校地内を流れていた木流堀は、昭和27年から始まった広瀬川のコンクリート護岸工事にともない、まっすぐに川に導かれた。

宮農付近から長町一帯にかけての浸水は、木流堀からあふれ出た水によるものだった。木流堀とは、名取川から取水され西多賀、砂押、鹿野、門前と流れて山で伐採した木を城下に運ぶのに使われた堀で、広瀬橋の上流で川に注いだ。「信じられないことに、その頃の木流堀は広瀬川の上流に向かって放流していたからね」と大竹さん。川の増水で水が流れ込み、たちまちあふれ出たのだと思われる。

昭和25年のヘレン台風くずれ熱帯低気圧の被害はさらに甚大だった。8月5日の河北新報は「広瀬川は一朝にして魔の川と化した。澱橋、評定河原、堰場付近などきのうまでは夕涼みの人々がそぞろに歩いていた場所が4日朝は一面のどろ海となってしまった。…全耕地の70%冠水という悲惨な数字が夕刻までに記録された。仙台では実に40年ぶりの水害である」と惨状を伝えている。このときの仙台市内の被害は、死者6、行方不明4、家屋流失1138、全壊27、半壊25、床上浸水2323、床下浸水2871、堤防決壊10ヵ所。評定河原橋、宮沢橋などが流された。佐藤さんが見た、人が乗ったまま流されてきた家もこのときのものだ。清流広瀬川が暮らしを呑み込む、そんな時代が50年ほど前にあったのである。

堤防と木流堀口

広瀬橋から三居沢間のコンクリート護岸は、昭和34年10月に完成。それは、水害に苦しんだ市民の悲願でもあった。左に黒く見える護岸の途切れた部分から木流堀の水が流れてくる。