■多くの人が楽しんだ宮沢橋下の貸しボート屋さん

昭和40年代初めの宮沢橋下付近

たしかに水量の豊かさが見てとれる。(写真提供/菊地重夫「今日の広瀬川」より http://hirosegawa.mediakoubou.com/)

多くの仙台市民にとって、貸しボート屋ときいて真っ先に浮かぶのは、宮沢橋のたもとではないだろうか。私自身、乗りにいった記憶があるし、まわりの仙台育ちの人にたずねれば、なつかしそうな口ぶりで「乗ったよ」と答えが返ってくる。

戦後まもない頃ここで貸しボート屋を始めたというのが、現在も橋のたもとに暮らす高橋チメヨさんだ。「始めたのは昭和21年頃。石巻の船大工に頼んでつくったボートが30槽くらいありました。1時間の料金が決まっていて、ボートの番号を黒板に書いておいて、時間がくると“○番さーん、時間ですー”って呼ぶんですよ」。

カメラマンの熊谷憲昭さんは、昭和30年代、夏休みになると川原に出かけ、この“○番さーん”を手伝ったという。「近くで遊んでると、おばさんに○番のボート探してっていわれて、川原を走って探すんだよね。そうすると、最後に30分くらいタダで乗せてもらえた。夏休みのいい思い出だよ」。

その頃、広瀬川の水量はいまよりはるかに豊かだった。高橋さんは「大人の胸ぐらいまでありましたよ。子どもたちはボートにつかまって泳いでね」と当時をふり返る。

高橋さんの記憶によると、当時、宮沢橋下の左岸には上流から、鷺谷、千葉、高橋の3軒の貸しボート屋があったという。許可は宮城県の土木事務所から受けていた。「たしか1時間いくらと印刷された切符を何冊も買ってきて、営業していました。にぎわったときなんか、もうぶつかるくらい。でもねぇ、洪水でボートが六郷まで流されたり、傷んでくれば修理に出したり、維持するのもなかなか大変で、18年営業して千葉さんにゆずったんですよ」。

■河川法にはばまれた営業継続

昭和60年頃の宮沢橋下の風景

この5年後に貸しボート屋は廃業した。(写真提供/仙台市広報課)

その千葉さんが広瀬川最後の貸しボート屋だったはずである。店じまいはいつのことだったか。河北新報で報道されたことだけは覚えていたのだけれど、時期がはっきりしない。宮城県土木事務所が許可を与えていたのなら、その記録からわかるかもしれないと電話をすると、「1年更新の許可で、最後は平成2年11月までとなっています」との答えだった。ならばこの年の夏までの営業、と見当をつけ新聞を繰ると、9月22日付け夕刊に「行政にほんろうされ“沈没” 広瀬川きらめくボート想い出は帰らず…」の記事を見つけた。千葉さんの廃業した後を引き継ぎたいという後継者が現れてているものの、河川法の規定があり認められないという内容である。

土木事務所の話によると、明治時代に施行された河川法が改正されたのは昭和40年。このとき営利を目的として河川敷を占有することは一代限りとされたのだという。よって、千葉さんの貸しボート屋は、受け継ぎたいという人がいたにもかかわらず姿を消したのである。

現在の宮沢橋下の川原

かつてはの河川敷にボートが並んでいた。今も天気がよいとゆっくりと過ごす人の姿がある。

宮沢橋下以外の貸しボート屋に、いつ最後の許可が出されているかもたずねてみた。「川内の貸しボート屋は昭和60年、愛宕橋上流は62年、場所は定かではないのですが作並は宮沢橋と同じ平成2年。お断りしておくと、これは許可した年であって営業しているかどうかは定かではないのですが…」という返事。

川内というのが、小野幹さんの撮影した貸しボート屋だろう。いずれにしても、戦後すぐ青春時代を迎えたいま70歳代後半から、昭和の終わりに中・高校生だった30歳代前半くらいの世代まで、およそ50年にわたって多くの仙台市民に愛された貸しボート屋は、昭和の終わりから平成の初めに、つぎつぎと廃業したのである。