■思いをリレーし、川に祈る

落合3丁目の河童祭り(提供/神永久雄氏)

昭和45年から、河童祭りは落合3丁目の川原で行われるようになった。大ぜいの参加でにぎわう祭り風景には、新しい団地の活気が感じられる。

「河童祭り? おととい終わったばかりですよ」。開口一番、神永久雄さんが、そうおっしゃったのには驚いた。天江富弥が種をまいた河童祭りは、青葉区落合三丁目の夏の祭りとして、すでに30年以上の歴史を刻んでいたのだった。

「河童祭りはね、いろんなところでやったんです。炉ばたでもやったし、広瀬川でもやった。で、確かこの鳴合温泉で数回やった後、私が住んでた落合三丁目、当時は滝の瀬といったんですがね、そこに移してずっと町内会の祭りとして続けてきたんですよ。岸に河童様の祠も祀ってね。鳴合温泉のときは、炉ばたの常連さんが家族連れで遊んで、一軒宿で直会(なおらい)をやって飲んでね。楽しかったですよ」と、神永さんは河童祭りの歴史を話してくださる。

滝の瀬に移ってからも、天江はお祭りにやってきて楽しんだ。「川原につくった祭壇に好物のキュウリ上げて、河童が悪さして子どもたちの水難事故がないことを願って、おんちゃんが祝詞(のりと)を上げるんです。それがまぁ面白くて、みんな大笑いだ」。厳かな儀式であってもユーモアを忘れない、天江の遊び心が見えるようだ。
いま70歳代後半の神永さんの子ども時代は、泳ぐといえば川だった。「川には河童が住んでると信じてました。河童は相撲が強い。だから、出会ったら、まずこんにちは、とあいさつして、頭を下げてお皿の水が空になったところでかかれば勝てる、と本気でそう思っていた。ハッハッハ。キュウリもね、お祭りで河童に上げるまでは食べなかった。戦前はどの家もそうでした」と神永さん。

その頃の広瀬川はきれいだった。「足もとでカジカがごそごそして、米も研いだくらいですよ。それがだんだん汚くなる。河童祭りを復活したおんちゃんの思いは、郷土の川を守れということだったんでしょう」。懐深い天江のことだ、川が汚れたら河童の住み処がなくなってしまう、と本気で河童たちのことも心配していたのではないだろうか。

■子どもたちは河童を信じていた

炉ばたの河童祭り案内

天江は炉ばたでも毎年、河童祭りを行った。案内は天江の手づくり。レイアウトや文字に並々ならぬセンスが感じられる。

もう一人会いたい人がいた。天江とともに児童文化活動を行い、天江の設立した「おてんとさんの会」の2代目会長を務める富田博さんである。落合の河童祭りにもかかわり、一昨年まで祭りで祝詞を上げていたのだという。「いやぁ、天江さんのように面白おかしくはできませんよ。祭りの最初は、角五郎の川原、ちょうど松淵のあたり。天江さんは児童文化活動の草分けですからね、やっぱり子どもたちを守りたいという思いで始められたんでしょうね」。

85歳になる富田さんは、戦前の仙台の雰囲気をいまだ鮮明に記憶されている。

「仙台はね、町のあちこちに河童神様があったんです。南町の磯良神社。北六番丁新坂通の四谷堰にあった牛頭天王さん。木下白山神社の境内。宮沢橋のたもと。連坊小路の東端…子どもたちはみんな毎年7月15日の河童祭りになると、お参りに行って神社から水難除けの木札をもらい、それを首に下げて川に入ったものです。その日までは泳がなかったし、キュウリも食べなかった。水難を避けようという親たちの願いもあったでしょうね」。
河童は川だけでなく、水のあるところにはいるとされていた。「小さな水たまりにだって河童はいると教えられてましたからね。 川に小便しようものなら“たたられてチンポ曲がっとー”といわれたり、怖くなって“俺死んだら、ガンバコさ水入れねでけさい”とお願いしたり…」と富田さん。

子どもたちにとって、河童は確かに存在するリアルなものだったのだ。川の半分は河童たちのもの。河童を信じることで水は怖いものにもなった。その生態を生き生きと語れる時代は、それだけ川と人とのかかわりが濃密だったともいえるだろう。

富田さんは「天江さんには河童への愛情があった」と指摘する。

「昔から私は河童が好きだった」「河童の話なら一晩でもする」と文にも残している。河童の甲羅は何のためにあるや? 河童と自分との類似点は? そんな質問を炉ばたの客にぶつけてもいた。河童を信じ、楽しみ、親近感を持って語り続けた天江は、戦前の仙台の川の文化を戦後につなげようとしたのだと思う。