■仮橋を渡り、川で洗濯をした昭和20年代

中ノ瀬橋の下

二層式の橋は、昭和58年に完成した。高橋さんに案内していただく。

高橋さんは写真を見るなり「これは仲ノ瀬の仮橋ですよ」とおっしゃった。「昭和25年8月の大水害は、床下まで水が上がったほどでねぇ、そのとき仲ノ瀬橋は使えなくなり、こんな仮橋ができたんです。対岸の中の町、いまの市民プールのとこですが・・、そこへは、このやっと一人歩けるような橋を渡ったんですよ」。

そもそも仲ノ瀬橋付近には川の中央に大きな洲があり、両岸からその洲に向けて2つの橋が架けられていた。大水になれば、すぐに流されてしまう橋はいくたびも架け替えられている。昭和2年に、初めて両岸を結ぶ橋が竣工。だが、この橋も15年の水害で、高橋さんによれば橋脚ごと流されたという。翌年、工兵隊第3連隊によって再び橋は完成した。それを使用不可能にしたのが、25年のジェーン台風だったというわけだ。

奥さんのヨシエさんが、写真を横からのぞきこみながら話してくださった。「29年に結婚したんですけれど、立町あたりまで配達に行くのに 15キロの炭すごを運搬車に乗せてこの仮橋渡ったの。落ちそうで恐くて、自転車下りて押していったねえ」。確かに、床は凸凹していて、バランスを崩せば荷物ごと落ちそうだし、向こうから人が来たらすれ違うのも大変そうだ。ヨシエさんは川で洗濯もした。「何しろ12人家族で、まだ井戸だったから、洗濯物をしょい籠に積んで運んで、川で足で踏んですすいだの。忘れもしない昭和30年11月15日、一人目の出産予定日にそうやって洗濯してた」。洗濯の話は、澱橋たもとの太田さんにもうかがった。この辺の人はみんな川で洗ってたよ、と。水もきれいだったのだろう。広瀬川の汚れが指摘されるようになるのは、その後である。

対岸にあった仲の町

中の町は西公園の市民プール付近にあった。橋脚の向こうに対岸を見る。

話を伺いながら仲ノ瀬の仮橋との確信を得たと感じていたら、ヨシエさんがけげんそうにこうもらした。「ほんとに仲ノ瀬かしら。私が渡ったのはもっと粗末だったような気がするなぁ」。写真の影から判断すると、向こう側は中の町である。その家並みがすべて失われている現在、この写真を仲ノ瀬と断定はできない。

ただ一つ、確信を持っていえるのは、川と暮らしがもっと密接だったことだ。林一さんは川で泳ぎ、ハヤを釣り、カジカをヤスで突いたという。遊ぶ楽しみも、生活の用水も、水害の恐怖ももたらした広瀬川、それはいまよりずっとずっと身近にあった。


参考文献
『仙台市史 資料編5近代現代1交通建設』(仙台市 平成11年)
『五色会』(仙台市立町国民学校昭和19年3月卒業同期会 平成2年)