■流れと生きものを知りつくす人

泉ケ岳を望む

広々とした河原の向こうに雪山。しかし川岸には視界をさえぎるマンションも増えてきた。

川をつぶさに見続けてきた荒井さん、安達さんの話に引き込まれた。川の浅いところ、深いところ、水の多いとき、少ないとき、気候や季節によって変化する水量と流れの違いを、ピンポイントで掌握していたようなのだ。

「もう泳ぎまわってましたよ。夏になると六、七郷堀で取水するから水かさが減ってね、うちの前から対岸に漕ぐように歩いていけたの」と荒井さん。

川を歩いて渡る話は安達さんからも出た。「いまの飯田団地には競馬場があったんだけど、親父が好きでねえ。三橋(現・上飯田2丁目付近)から、2人で靴脱いで渡るんですよ、ここは浅かったからね。日辺の合流地点のところは深くて渡し舟があったんですよ。広瀬橋の鉄橋の下はすごく深くてね、鉄橋の上から飛び込む人がいたくらいだった」。安達さんの奥さんのやゑ子さんは三橋生まれで、同じように、競馬場のあった対岸に川を歩いて渡ったという。「うちの畑が飯田にあって、子どものころはイモ掘りによく連れていかされたのね。馬車で渡ることもあったよ」

三橋近くの河原

流れは二筋に分かれ、手前は淀みになりつつある。安達さんご夫婦が歩いて渡ったと話すあたり。遠くに小さく太白さんが見えた。

藤塚と閖上を結ぶ渡し舟があったことは以前紹介したが、日辺と四郎丸をつなぐ舟もあったのだ。荒井さんは、戦後の食糧難のころ、落合観音堂近くに着くこの渡し舟で四郎丸まで買い出しに出かけたという。まだ子どもだった安達さんは、「お金がないから渡し舟に乗れなくて、泳いで渡って、歩いて閖上に泳ぎにいったんですよ、このへんの子どもら8、9人で」と笑う。渡し舟に乗って、閖上からは焼きガレイを詰めたカゴを背負ったおばさんたちが、お得意さんまわりにやってきた。

安達さんは魚獲りに夢中だった。夏のボラ、広瀬橋の下まで上がってくるハゼ、アユを餌にしてねらうウナギやナマズ、群れなして押し寄せるサケ、産卵のために海に下がってくる落ちアユ、11月の恵比寿講のときに売り歩くフナ…。魚は季節季節、場所に応じて豊かな姿を見せた。河原で焼かれた魚は腕白たちのお腹におさまり、食卓もにぎわした。

「昭和36年に大倉ダムができるまで、川幅はもっと広く、水はきれいで水量も多かった」と、お二人はいう。豊かな水が海の影響を受けながら、たくさんの生きものが棲息できる多彩で変化に富んだ環境を保っていたのだろう。

水鳥が浮かぶ

温かな日差しの下でひなたぼっこをしていたカモたち。近づくと、人を避けるように中洲へと泳いでいった。