■変わりゆく流れと風景の中で

この写真のころ、川岸はずいぶんのどかだったようだ。田畑が広がり、ところどころにある大きな農家の間に、工場が立地していた。「堤防の工事を請け負った建設会社があって、ゼラチンをつくっていた宮城化学工業があって、あとはコンニャク工場、綿工場…」と安達さん。工場の立地は川の水との関係だろうか。対岸の八本松側にも大きな工場が並んだ。「八本松マンションのところは、溶鉱炉みたいなのがあって、火事かと思うくらいの炎が上がることがあったんですよ。その上が北日本電線だね」。右岸の工場立地には、長町貨物駅とのかかわりが感じとれる。

「川で農家の人たちが野菜洗ってましたよ。まわりは麦畑と芋畑。溜めツボがあっちにもこっちにも。落ちたっていう話はきかなかったけど(笑)」と菅野さん。河原では牛の放牧もあった。安達さんによると北側にほとんど住宅はなかったというが、若林小学校の開校が昭和29年だったことを考えると、ちょうどこの写真のころに宅地化が始まり地域の暮らしぶりが変わろうとしていたのかもしれない。

広瀬橋の左岸から川に下りて広々とした河原を歩いた。旅立稲荷神社の大ケヤキが堂々と見事な枝ぶりで立ち、1月にしては温かな気温が河原に誘いだしたのか、散歩の人やランニングの人が少なくない。やわらかな色の枯れ草の向こうには青い流れが走り、振り返ると雪をかぶった泉ヶ岳が見えた。ときおり音を立てて走り去る新幹線や貨物線が風景に動きをつくって、眺めているだけで楽しい。建物が高層化して空が狭くなる一方の街中にも、崖が人と川の間に距離を生む中流や上流にも、こんな心地いい伸びやかさはないなと思う。

荒井さんは、「八本松マンションの下はすごく深くてね。あのあたりを"タイカイ"、日辺の渡し舟のあたりを"ヤマト"とよんでいたんですよ」と話す。理由はわからない。"タイカイ"とは"大海"だろうか。深かったという話からそんな漢字を思い浮かべるが、目の前の流れにそのイメージはない。それでも、水の流れが二筋に分かれたあと、一方は瀬をつくり一方は淀みになっているのを見ると、刻一刻変化する川のようすがうかがえた。

昭和25年の水害

仙台大橋近くには、洪水位を示す標識がある。当時は堤防はいまより低く、日辺付近が決壊したという。

やゑ子さんは驚くような話をしてくれた。「うちの実家の畑はね、もう水の中なの。でも税金払ってるの」。

川は生きている。いつ、どんな気候変動で何が起きるかはわからない。大津波の被害の痕跡を残す河川敷の畑に立ち、川岸に少しずつ増えてきたマンションを眺めながら、そう思う。