■崖の上からの眺望を守るために

左手に宮城県知事公館を見ながら新坂を上がる。坂の右手は、戦前まで第二師団長の官舎だったところだ。小野幹さんの写真左に見える川に覆いかぶさるような緑がそれだが、いまは日本銀行の寮の敷地となっていて、入ることはできなかった。高層マンションが立ち、家々も固く門を閉ざし、暮らし方も低い家並みの続くこの写真の時代とは違っていることを知らされる。

支倉橋に通じたという崖は、南北に延びる支倉通の南端にある。のぞきこむと、フェンス越しでもちょっと恐いくらい深い。木や草につかまるようにして崖の下まで下りたのだろうか。そして、道はもうないのだろうか。東側の家でインターホン越しにたずねると、「下りられる道があったと聞いています。江戸時代のことらしいですけどね」という答え。近隣の方々には、薄れてはいるものの橋の記憶は語り継がれているのかもしれない。絵図でたどると、元禄7年に流されたあとも、幕末近くまで崖の道は描かれている。やがて明治に入ると、地図からはすっぽりと姿を消す。しかし、高橋久二子さんは、このあたりで大正生まれの人が崖の道を下り川で遊んだという話を聞いたことがあるという。

この崖から東に延びる通りが支倉丁だ。支倉某という人物が住んだゆえ、と資料は伝えていて、その人物は支倉常長(六右衛門)の養父ともいわれるが定かではない。だが、通りを歩いていて、たまたま庭先にいらっしゃるのをお見かけし話しかけた須田千代さんがこんな話をなさるので驚いた。「うちは支倉に住んで2代目なんですけどね、奥にある井戸は支倉六右衛門の頃からのだ、とよく主人が話してたんですよ」見せていただいた井戸は風化した秋保石の井戸枠と流しを備え、水は豊かでいまもお風呂や池に使っているという。江戸時代に掘った井戸だとしても、なぜわざわざ「支倉六右衛門の」と語り継いできたのか。興味がつきない。

井戸水の湧く庭

支倉六右衛門の物語が伝えられるお宅の庭。池は井戸水でまかなわれれいる。

須田さんは崖の道はご存知なかったが、お子さんが小さかったころは向かい(崖側)の家に遊びに行くことも多かったという。「ベランダの下がすぐ崖でしょ。そこで遊んでいるから、もうはらはらして。でも、眺めは見事なのよねえ」

1階が駐車場となっているマンションから川に近づいてみると、千年杉を右に見て息をのむような眺望が広がっていた。この風景を支倉六右衛門も見ただろうか。ここでも、眺めを楽しんだ無数の人々の存在を感じる。一方で、今回の崖の崩落が人家の目の前で起き、暮らしをおびやかすものになっていることに危機感も抱いた。

ダイナミックな蛇行と緑豊かな自然崖を見せながら、そこに人々の記憶をとどめてきた広瀬川。薄くなる緑と浸食される崖をどう守るのか、真剣に考えるべきときがきていることを崩落した現場が教えている。

支倉の崖の上から

広瀬川を見下ろす。蛇行していく川の流れが手にとるようだ。