フリーライター/西大立目祥子
■城下町北部と川内をつないだ支倉橋
大震災の経験をしてからというもの、風景にはたくさんの人の記憶が宿っている、という思いが強くなった。風景を見て、そこで自分がかつて経験したことを思い起こすだけではなく、その風景を眺めた誰かと、いま眺めている自分がつながっているような気がするのだ。
おびただしい数の突然死や、まちがすっぽり津波でさらわれる報道を見続けたからだろうか。風景はそこに暮らす人々によって生きられ、いまここにあるのだと思う。
今回、小野幹さんからお借りしたのは、広瀬川の澱橋の少し下流、支倉近辺の写真である。撮影は昭和52年。宮城県沖地震の1年ほど前と思われる。川に延びているあふれるような緑の中に、和風の母屋と総2階建ての洋館を配したU氏邸の庭が見える。
写真ではわかりにくいが、庭の西端、一部コンクリートで被った崖の上に黒く立つ樹木が、仙台市の保存樹木の千年杉だ。ここには江戸時代初頭、藩を揺るがした伊達騒動の中心人物、伊達兵部宗勝の屋敷があった。樹齢数百年の大木を、宗勝も庭に下りて見上げただろうか。
その頃は、この屋敷の東側を通る支倉通から対岸まで橋が架かっていた。延宝・天和年間の絵図を見ると、支倉通のわきから崖を下り、川の中州を通って対岸へ渡る橋が描かれている。支倉橋とよばれた大小2つの橋は、きざみを入れて茶色に塗られ、板張りであることが想像できる。
城下町北部と川内をつなぐ橋として通行する人は多かったろうが、元禄7年(1694)8月の洪水で流され、架け替えられることはなかった(『増補 仙台鹿の子』)。その跡は断崖となり、対岸には川内元支倉丁の地名が残された。
橋が流されて300年。もはや橋の痕跡など見つからないだろう、と思いながら赤門自動車学校となっている川の右岸から橋の跡を眺めてみた。かつて川へ下りる道のあった断崖部分の樹木は厚く、確かに川を隔て右岸と左岸の道がつながるようすが想像できた。
崖が2カ所、大きく崩落しているのが目に止まった。崖の上部にはコンクリートが張りつけられ、根元にも護岸工事のブロックが積まれている。宮城県仙台土木事務所によれば、この崩落は地震前のもので、上部のコンクリート工事は下で作業する作業員の安全確保のためという。
崩落した崖
それにしても、30年前の写真にくらべると崖と流れのようすは何と変わったことか。緑が大幅に縮小し、中州も消え、左岸側の崖がずいぶんと削りとられている。崖の際と立ち並ぶ家々の間に余裕はない。地震でぐらりと揺らされるたび、暮らす方々は生きた心地がしないだろう。
川は予想できない変化をもたらす生き物なのだ、と思い知らされる。ただ、千年杉だけは、変わらない堂々とした姿で川を見下ろしていた。
千年杉